生活クラブグループ
市民セクター政策機構

市民セクター政策機構 市民セクター政策機構は、生活クラブグループのシンクタンクとして、市民を主体とする社会システムづくりに寄与します。

②ネット最前線・観測記4「100年+1年」災害と差別 そして弄ばれる「虐殺」の記憶
(瀧 大知 市民セクター政策機構客員研究員、外国人人権法連絡会・事務局次長)

【発売中!】季刊『社会運動』2024年4月発行【454号】特集:ワクワクする再エネ社会 脱原発の世界を歩く

「虐殺100年」と能登半島地震の流言飛語

 

2023年は関東大震災から100年目であった。このとき「朝鮮人が井戸に毒を入れている」などの差別的な災害流言が流布され、多くの朝鮮人や中国人が虐殺された。災害時のヘイトデマ、この地震大国では現在もインターネットを核にして繰り返し生産されている。


 新年2024年1月1日、石川県能登地方で発生した地震時も例外ではなかった。直後からX(旧Twitter)では「外国人窃盗団が能登半島に集結している」といった根拠不明な書き込みが相次いだ(注1)。このほか「半島のやつが井戸に毒を入れるんでちゅ!!」(アカウント名「Rainie@Rainie_012 」2024年1月1日16時22分 ※以下、引用ポストは2024年1月1日閲覧)と、100年前の虐殺を茶化す言動も散見された。小泉龍司法務大臣は1月12日の記者会見にて「偏見や差別を助長するような情報を発信するなどの行為(中略)は重大な人権侵害になり得る」「避難や復旧・復興の妨げにもなってまいります。厳に謹んでいただきたい」(法務省HPより)と呼びかけた。

 

3・11からみるヘイトデマの効果

 

 2011年・東日本大震災(3・11)以降、従来の連絡手段が遮断される中、新たな情報取得ツールとしてSNSの利用数が一気に増加した。同時に、この流れはデマの拡散力強化にも繋がった。


 同年3月26日の朝日新聞の配信記事「『外国人窃盗団』『雨当たれば被曝』被災地、広がるデマ」では「『港に来ていた外国人が残っていて悪さをするらしい』。仙台市のタクシー運転手はおびえた表情をみせた」とある。当時の宮城県警本部長は被災地で広まった「外国人窃盗団の横行」なる情報が虚偽と伝えるために避難所を回り、住民の不安を解消した(注2)。警察庁HP掲載の「インターネット上の震災に関する不確かな情報に関する注意 [参考]」(2011年6月21日付)には、「避難所で某国人がやりたい放題」を含む41件のデマ投稿への対応(削除等)をサイト管理者に求めたと記載されている。


 2016年に宮城県仙台市と東京都新宿区居住の日本国籍者を対象に行われた調査では、(3・11の)「被災地で外国人が犯罪をしているといううわさ」を聞いた人のうち8割以上が「信じた」ことが分かっている(注3)。さらに、YouTubeには「中国人が亡くなった方の腕や指を切って貴金属を盗んでいる」とのデマを聞いた右翼団体が被災地を訪れ、すれ違う人に声をかけ、(中国語を話したら)「その場で『殺しちゃえ』つってね」「『瓦礫に埋めときゃ分からねぇ』つって」と語る動画が残っている(注4)。

 

「井戸に毒」のネタ化と、反レイシズムへのからかい

 

 他方、2016年の熊本地震時におけるTwitter上の書き込みを調査・分析した研究によれば、差別を批判する投稿数がヘイトツイート数を凌いでいた(注5)。抗議者は災害が起きるとSNSを確認し、差別投稿を批判、削除を呼びかける。ところが近年、対抗行動を揶揄する行為がみられるようになった。それは1923年に起きた虐殺をネタとして、あたかも弄ぶような形で行われている。


 例えば次のポスト(旧ツイート)もそうした「ネタ投稿」の一つである。「地震が起きたら井戸に毒を入れられないか気を付けないとな……。」(「陰棒論者@le52770」2024年1月1日18時33分)。これが批判されると投稿者は「マジかよww人種とかも書いてないのに井戸と毒だけでマジでワラワラたかってきたぞw/こりゃ面白いな、ハトとか鯉に餌やってる人ってこんな気持ちなんだろうな」(「陰棒論者@le52770」2024年1月1日19時24分)と反応した。同様にネタ的なポストをした別のアカウントは、動機を包み隠さず吐露している。「俺がこんなポストをするのは朝鮮人が嫌いだからではなく、井戸毒で検索する諸君の反応が面白いから」「反応が来る限りこういうポストし続けるし、今回もめっちゃ反応来たから次もするで」(「ヒキニートー@X(ディエス)-MENonX@nalltama」2024年1月1日 18時26分)。


 これらの効果や目的には重層的な悪質さがある。


 まず、実際に虐殺関連のデマがあり、かつ日本(人)が犯した歴史的な事件を不特定多数が参加する空間でふざける「ネタ」にして良いわけはない。ネット上ではネタ化された事象は容易に模倣される。それは虐殺軽視を可とする認知を生成、常態化させることに繋がる。上記引用はその証左といえよう。
 次に、「虐殺ネタ」が抗議者への「からかい」を意図している点である。ジェンダー研究で知られる社会学者の江原由美子は、1970年代のウーマンリブ運動(女性解放運動)に当時のマスコミが向けた「からかい」「嘲笑」のレトリックを分析し、「からかい」とは「遊び」であり、この文脈でのみ対象行為が扱われることで、当該主張を真面目に取り上げる必要がないものとされることを指摘した。つまり権利獲得/反差別の声に向けられた「からかい」は、その正当性を剥奪する機能をもつ。また、「遊び」であることから、これに怒ると「遊びのルール違反」として制裁対象になる(注6)。まさに「虐殺ネタ」も「からかいの政治学」の一種ではないか。怒る抗議者をバカにし、「ネタに反応するおかしい人たち」と閲覧者に見せかけ、反差別の声を無効化しようとする政治的行為なのである。当然、これは差別のアシストでしかない。

 

「100+1」をどのように選択するのか

 

 このような状況を生む背景には、現実政治のレベルで「虐殺」の歴史が軽く扱われ、ときに否認されていることもあるかと思われる。小池百合子東京都知事は就任翌年の2017年から、歴代都知事が続けてきた「朝鮮人犠牲者追悼式典」への追悼文の送付をやめた。それに煽られるように、追悼式典付近では排外主義団体による嫌がらせ街宣が始まった。日本政府も虐殺を証明する様々な記録/資料が発見されているにも関わらず、公的な謝罪はもちろん、調査もしていない。


 今年7月には東京知事選挙が予定されている。2024年をただの23年の次とするのか、あるいは「100+1」の歴史軸で捉え、差別を止めるための新しい「+1年」とするのか、「私たちはどう生きるか」の選択が求められている。

(P.116-P.119 記事全文)

 

インターネット購入