生活クラブグループ
市民セクター政策機構

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④遊佐町共同開発米部会

俺の米を食べてくれている人の存在が、米作りのパワー(JA庄内みどり遊佐町共同開発米部会 会長 今野 修さん)

【新刊】季刊『社会運動』2024年7月発行【455号】特集:飢える社会が来た ー生産者と消費者の対等互恵で生きのびる

組合員と生産者が意見を交わしてつくる「共同開発米」


 生活クラブと遊佐の生産者との提携は50年以上の歴史がある。生活クラブの組合員は自分たちが納得して食べられる米を求め、生産者との提携を模索していた。一方、国の減反政策で米作りの将来に危機感を持った遊佐町の生産者は、新たな活路を見出そうとしていた。その両者の思いが結びつき、1971年に生活クラブと遊佐町農協(当時)との米の提携が始まった。それは、流通業者を通さず生産者と消費者が直接取引を行う単なる産直ではない。食べ手と作り手が互いを理解し合いながら、持続可能な生産と消費の関係を築いてきた。
 74年に始まった「庄内交流会」など様々な取り組みが展開され、1982年には、遊佐町農協の米生産量の3分の2が生活クラブで消費される量となるまでに拡大した。一般市場では「ササ・コシ信仰」と言われるようにブランド米が圧倒的な人気を博すなかで、遊佐に適した品種や有機肥料を使用し、農薬を使用しない農法、食べ続けられる、作り続けられる価格などを協議しながら作る「共同開発米」が提案された。
 92年には、遊佐町農協内に「共同開発米部会」が発足し、生活クラブでは米の「年間登録制度」(組合員が事前予約して共同開発米を利用・消費する仕組み)が始まった。93年、共同開発米の愛称が公募され、「遊YOU米」と決まった。その後、共同開発米を軸に有機農法の拡大と安全な米作りの追求、複数品種の導入による適期作業体系を遊佐の地域に一般化していった。米余り・米離れと言われ市場動向に翻弄される米の価格に対し、生産コストを反映し、安定した価格の米を作り続けて行くための生産原価保障方式を追求してきた。さらに、93年の「平成の大凶作」と呼ばれる冷害による不作を契機に創設された共同開発米基金など、社会的にも大きな影響をもたらした画期的な取り組みを実現してきた。

(P.25-P.26記事抜粋)

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