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⑤(株)平田牧場

大切に育ててきた豚を食べてもらうための試みと希望(専務執行役 茂木陽一さん)

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豚の声で目覚め豚舎に遊んだ幼少期


 鳥海山の麓に広がる庄内平野は、言わずと知れた米どころ。平田牧場が創業した1964年当時も、農家は米さえ作っていれば十分に食べていけるといわれていた。しかし創業者の新田嘉一さんは農家を継がず、養豚業界に飛び込む。「日本人の暮らしが豊かになれば、食の嗜好は炭水化物からたんぱく質に移る」と、先を読んでのことだ。
 時を同じくして、現・専務執行役の茂木陽一さんの父、敏彌さんも養豚農家へと転身。平田牧場の創成期を支えた。
 「1967年、会社の法人化を期に、父は1500坪の田んぼを潰して養豚事業を始めました。もちろん祖父は大反対でしたが、祖母が背中を押したそうです」(茂木陽一さん・以下同)
 息子である陽一さんが生まれたのは、一家が養豚事業を始めて間もない1969年。傍らにはいつも、ペットではなく〝いきもの〟としての豚がいた。
 「当時の養豚農家は、数頭規模の 〝庭先養豚〟を含め、全国で50万戸 くらいだったかと思います。事業としてはまだ手探りの時期で、両親は常に仕事に追われ、私も小学校に入る前から仕事を手伝っていました。それが当たり前の生活だったので、特につらいと思ったことはありません。
 豚舎は、私の部屋から20?30メートルのところにありました。朝は、お腹を空かせた豚たちの鳴き声で目覚め、食事は従業員さんたちと一緒に食べる。家族水入らずというのは、ほとんどなかったです。豚舎でよく遊んだりもしました。いまのように防疫対策が徹底されていなかった時代ですし、両親や従業員さんが働く様子を見ているのが好きだったんです。私も小学校の3、4年生くらいまでは、『大人になったら養豚を継ぐ』と公言していましたが、思春期に入るとそう素直には言えなくなってしまいました。
 当時は、豚舎で仕事をした後にシャワーを浴びるような習慣も施設もありませんでしたから、父の体に染み付いた匂いが次第に気になるようになりました。学校で〝将来の夢〟を書かされたときも別の職業を書き、それを見た父がすごく寂しそうな顔をしていたことを覚えています」

(P.39-P.40記事抜粋)

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