生活クラブグループ
市民セクター政策機構

市民セクター政策機構 市民セクター政策機構は、生活クラブグループのシンクタンクとして、市民を主体とする社会システムづくりに寄与します。

③鬼無里の杜は組合員の会社((株)鬼無里の杜 代表取締役社長 青木幸彦さん/事業部長 戸谷稔さん/生活クラブ生活協同組合・長野前理事長 千村康代さん)

【新刊】季刊『社会運動』2024年7月発行【455号】特集:飢える社会が来た ー生産者と消費者の対等互恵で生きのびる

生産者と消費者の共同事業


―㈱鬼無里の杜設立までの経緯を聞かせてください。


戸谷 鬼無里村森林組合だった1950年代、多いときは食品加工事業、製材工場とフローリング工場、森林整備事業等で100人くらいが働いていました。ほとんどが鬼無里村の人でした。村のなかでそれだけの雇用を生み出していたのです。ところが、60年代から木材輸入が自由化され、ロシアやカナダから材木が入ってくるようになって林業の衰退が始まりました。事業が縮小していた鬼無里村森林組合は、2001年、合併によって長野森林組合鬼無里事業所となりました。


 食品事業は、製材が盛んだったころに副産物のおが粉を森林組合の組合員に配って、菌床にしてエノキダケを作るようになったのが始まりです。価格の変動に悩まされて付加価値をつけようと「ナメタケ茶漬」を作り始めるようになったのが67年でした。マルモ青木味噌の先代社長の青木生吉さんの仲介で生活クラブとの提携が始まり、77年に生活クラブの消費材「えのき茸茶漬」(長野県産味付えのき茸)を作り始めました。
 ところが組合員の利用が次第に減ったこともあって2017年くらいから赤字になり、生活クラブにもそのことを伝えていました。長野森林組合が鬼無里事業所の食品部門から撤退しようとしていることはわかっていました。戦後7000人くらいだった村の人口はいまでは1000人強ほどで、事業としてV字回復するのは難しい。でも、子育て中の職員もいたので、その雇用の継続を何とかしなければならないと考えていました。
 2021年8月に、長野森林組合と伊藤由理子生活クラブ連合会会長(当時)の会合があり、加工食品事業を閉じるのなら、生活クラブが引き継ぐ覚悟があるという意志を表明し、その後、青木社長のおかげで一気に会社設立の話が進みました。

(P.109-P.110記事抜粋)

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