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市民セクター政策機構

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― 朝鮮に生まれた金台郁はどのようにして、日本で生協運動にかかわるようになったのでしょうか。


 彼が消費組合運動にかかわりはじめる1920年代後半までの歩みは明確ではないのですが、彼の評伝(『ある人間像 菊田一雄と日本の協同組合運動』生活ジャーナル1988)やいくつかの文学作品などからわかることをお話しします。

 金台郁は05年に、朝鮮半島北部の咸鏡南道に生まれました。10年の韓国併合後、植民地支配下で実施された土地調査事業によって土地を失った一家は、彼が7歳のころ東洋拓殖会社の手引により間島(現在の中国東北部吉林省の国境地帯)に移住し、小作農として極貧の生活を送ることになりました。

 間島にも波及した19年の「三・一独立運動」の翌年、15歳の金台郁は勉学のため京城(現在のソウル)に行くことを決意します。京城までは単身徒歩で向かい、途中で農作業の手伝いなどをしながら、5カ月かけて到着したようです。彼は畳工場やゴム工場などで働き、夜は簿記学校に通いましたが、やがて菊田写真館の徒弟として3年の奉公生活を行います。

 厳しい徒弟生活のなかで簿記学校を終了し、中学校講義録で勉強するなどの努力を重ねていましたが、その間に賀川豊彦『死線を越えて』や河上肇『貧乏物語』などを読み、社会問題への意識を培ったようです。

 京城でぎりぎりの生活をして学資を貯め、関東大震災の1年後、24年9月に東京に来ました。震災の際に数千人の朝鮮人が日本の軍隊・警察および自警団などによって虐殺されたその記憶が生々しく残るなか、「菊田一雄(当初は清)」と名乗り、朝鮮人が働く復興工事の現場で人夫となり、翌年4月に日本大学専門部政経科の夜間部に入学します。

 当時は朝鮮総督府による産米増殖計画などによって朝鮮の農民がさらに困窮、「内地」での大きな労働力需要もあり日本に在留する朝鮮人が飛躍的に増えました。そうしたなか25年には全国の朝鮮人の労働組合の連合組織、在日朝鮮労働総同盟が結成されました。菊田は朴という人物に出会ったことから、民族的な労働組合の活動に加わるようになり、大学は中退します。

 菊田が金台郁の名前で27年8月に書いた「朝鮮問題と失業労働者」という記事からは、彼が当時京浜工業地帯を中心に労働運動に従事していたことがうかがえます。ここで菊田は朝鮮人の苦しい状況を訴え、植民地支配を激しく糾弾しています。ところが弾圧によって朴が逮捕されて惨死し、自身が所属する組織も一斉検挙されたようです。こうして菊田は28年5月ごろから日本の消費組合運動である関東消費組合連合(関消連)に加わるようになります。

(P.89-P.92 記事抜粋)


― 15歳から自分の道を切り開き、出会ったのが日本の消費組合運動だったのですね。関消連ではどのような活動をしたのでしょうか。

 菊田は関消連から派遣されて、山梨県富士吉田で地元の青年たちと消費組合の設立にあたります。この間に青年たちと研究会を開き、その内容をのちに『社会はどうなる?』(マルクス書房、1930年)として出版しています。そこでは民族的な主張は見られず、民族的な動きから距離を置いていたように見えますが、他方で30年の5月には朝鮮北部の龍川で東洋拓殖会社による土地の取り上げと小作料の引き下げに反対する小作農の争議から指導者として請われて赴いたようです。
 しかし、彼は現地での指導の成果が出ないうちに逮捕され京城の刑務所に収監されます。不起訴となって31年6月に出所したあとは東京の関消連に戻り、32年、関消連を母体として結成された日本無産者消費組合連盟(日消連)の中央委員になり、機関紙部長を担当します。
 菊田は32年に始まり戦前最大の大衆的運動となった「米よこせ運動」において、大きな役割を果たしました。彼は東京最大の貧民街で、朝鮮人も多く暮らしていた三河島千軒長屋(荒川区)で「三河島欠食者同盟」を組織して、6月に400人の失業者らが「米よこせ」と町長や警察署長の家に押しかけました。このことを嚆矢として、運動が全国的に広がります。8月に農林省と関消連、日消連の幹部との交渉により、「さしあたり6千俵の払い下げ、その後も随時必要量を払い下げる」という成果を上げました。
 このことは組織拡大につながった一方、警察の警戒を強め、33年1月、関消連関係者が大量に検挙され、34年6月には日消連大会で出席者が一斉検挙されました。菊田も逮捕されて3カ月以上拘留されています。
 釈放後、菊田は「農村経済調査会」のジャーナリストとして活動しますが、この間も警察の監視は続き、突然連れて行かれて留置されたこともしばしばありました。この時期には、全国に組織された「協和会」(内務省、警察を中心とした在日朝鮮人に対する統制機関)を通してすべての在日朝鮮人が警察署ごとに統括されるようになっていました。
 37年に日中戦争がはじまり、戦時体制の下、関消連は38年に解散を余儀なくされます。41年12月、日本は太平洋戦争に突入。43年春、菊田は神奈川県藤沢市に転居しました。44年の6月から7月にかけてマリアナ諸島が陥落し、B29による各地での空襲が憂慮され始める1年以上前のことでした。

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