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市民セクター政策機構

市民セクター政策機構 市民セクター政策機構は、生活クラブグループのシンクタンクとして、市民を主体とする社会システムづくりに寄与します。

③ハングル講座が拓いた日韓交流の道エスコープ大阪 専務理事 石川雅可年/ふれあい共生塾(ハングル講座)講師 翻訳家 金 丙鎭/ふれあい共生塾(ハングル講座)講師 韓日市民文化交流協議会ナヌンセ代表 康 英美

【新刊】季刊『社会運動』2024年10月発行【456号】特集:社会的経済に向かう韓国市民運動 ー『韓国協同組合運動100年史』翻訳出版記念

 まずエスコープ大阪の誕生について、触れてみたい。

 前身の泉北生協が設立された1970年は、高度経済成長期の真っ只中。経済効率が優先され、食の安全、物価高騰など暮らしを脅かす様々な問題が噴出していた。そんな時代に、計画的につくられた街の物価高(ニュータウン物価と呼ばれた)から「自分たちの暮らしを守るために」主婦たちが中心となって動き出した。泉北生協の設立総会は、空き地に仮設テントを張って行われ、子ども連れの母親たちが子どもを空き地で遊ばせながら、総会に参加したという。

 また当時、泉北生協は全国的に試みられていた、大学生協による地域生協づくりのさきがけにもなった。「生協運動不毛の地」と言われた大阪において、大阪府生協連の指導のもと、融資の際には大阪市立大学はじめ3つの大学生協が保証に尽力したとされている。

 「大阪では1970年頃、千里、泉北という2大ニュータウンで団地を中心とした新しいまちづくりが始まりました。子ども連れ、働き盛りの人たちが各地から移り住み、自分たちの住む街や暮らしをよくしていこうという前向きな気概がありましたね」

 と石川専務理事は語る。当時まだめずらしかったハングル講座が始まり、広がったのも、1990年代の泉北ニュータウンからだった。

 「阪神・淡路大震災の起こった1995年は、エスコープ大阪の組合員が救援・支援ボランティア活動を通じて、地域コミュニティの大切さに目を向け、この年を福祉元年と位置づけ、地域の高齢者や障害者へのサポートが始まりました。また、当時、専務理事であった川島三夫さんは、たくさんの外国籍の人びとが被災したなかで、関東大震災の朝鮮人虐殺の負の歴史をふまえ、二度と同じ過ちを繰り返さないために何ができるかも考えましてね。『そういえば隣の国の言葉や歴史、文化を知らない。I love youって韓国ではなんて言うんやろ……』と、素朴な疑問から始まり、学んだり交流したりする機会はないものかと考えていたそうです」

 ある日、川島さんがエスコープ大阪に入った電話を取った。「こたつ布団を購入したけれど、届いた布団の色がカタログと違う」と苦情を言ったのが、康英美さんだった。

 「いま思うと、私たちの出会いは偶然ではなく、必然でしたね。川島さんが、この地域でハングル講座のようなことができないでしょうかと相談したところ、康さんは夫の金丙鎭さんと夫婦で講師を引き受けてくださいました」

 エスコープ大阪が会場提供や受講生募集などの支援をする形で理事会の承認を取り、「ふれあい共生塾・ハングル講座」がスタートした。開放的で教育に熱心だった地域性もあり、まだ韓流ブームが始まる以前だったが、講座には申し込みが殺到。あっという間に組合員だけでなく、地域の大学生、主婦、新聞社の編集人など、80人近い市民が集まった。これまで約30年の間に、延べ1000人が夫妻のハングル講座で学び、韓国に留学した人たちもいるそうだ。

(P.101-P.103 記事抜粋)


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