日本植民地支配下の朝鮮のリアリティ 一橋大学大学院社会学研究科・社会学部教授 加藤圭木
【新刊】季刊『社会運動』2024年10月発行【456号】特集:社会的経済に向かう韓国市民運動 ー『韓国協同組合運動100年史』翻訳出版記念
半世紀にわたる日本の熾烈な朝鮮支配
― 記録のない1938年から45年を含めて、日本の朝鮮支配の歴史を教えてください。
日本の朝鮮植民地支配といえば、まさに1930年代後半以降の非常に厳しい総動員体制のイメージが強いですが、日本が朝鮮を侵略の対象にしたのは、1875年の江華島事件からです(注1)。特に、日清戦争(1894?95年)・日露戦争(1904年?05年)は朝鮮侵略戦争というべきものでした。後者では朝鮮に恒久的な軍事基地を置くために、強権的な軍用地の接収も進められました。そして日露戦争以降に植民地化政策が本格化し、保安法などの治安立法を作り、民衆を弾圧していきます。大韓帝国を廃滅させ、朝鮮を完全に植民地化したのは1910年です。日本人の軍人を朝鮮総督に任命して軍事的な支配体制を樹立し、朝鮮人の言論、出版、集会、結社の取り締まりを強化していきます。1910年代には軍事警察が一般警察を兼任する憲兵警察制度を採用し、人びとの日常生活は、厳重に監視されました。3カ月以下の懲役刑等は裁判なしで警察署長や憲兵隊長が即決できる「犯罪即決例」や、鞭打ちの刑なども法令化し、徹底した軍事支配を定着させました。
植民地政策の大きな目的の一つは、朝鮮を経済的に従属させることでした。とりわけ安価な米の供給は、日本資本主義の発展の基盤となる低賃金労働を支えるための最重要課題でした。朝鮮を日本の食料基地にすべく、植民地化以前から朝鮮の米を安く買い叩いてどんどん輸入していました。さらに、地主に有利な形で所有権を確定していく「土地調査事業」によって日本人が土地を確保し、日本人を頂点とする植民地地主制を形成していきました。
その過程で、多くの朝鮮人農民が没落していきます。1920年代には産米増殖計画によって米の生産量が増えたにもかかわらず、増産分以上の米を日本に輸出させられたため、朝鮮の人びとは「草根木皮」で飢えをしのぐほどの食料難にあえぎ、その末に生活ができなくなり多くの人が農村を離れました。朝鮮国内でスラムが拡大したばかりか、日本や満州へと移り住まざるをえない人たちがおり、底辺の労働者や農民としてとことん搾取する社会構造をつくっていきます。こうして、日本人が大きな利益を上げ、ごく一部の親日派(対日協力者)の朝鮮人がおこぼれにあずかる形で利益を得るかたわらで、大多数の朝鮮人は非常に厳しい困窮状態に追いやられ、職業や生きる場所を選ぶ基本的自由も人権も奪われていきました。
(P.114-P.117 記事抜粋)
(注1) 1875年、漢江河口にある江華島付近で日本の挑発行為により朝鮮との軍事衝突が勃発。これを機に日本は朝鮮の開国を強要した。
「三・一独立運動」の影響と日本の同化政策
― 日本の植民地支配に対する朝鮮の人びとの抵抗運動はどのようなものでしたか。
19世紀後半からの侵略と植民地化の過程で、民族的な意思決定権が根本から否定されるという耐え難い支配に対して、「義兵運動」と呼ばれる抗日武力闘争をはじめ様々な抵抗運動がありました。朝鮮全土に広がった1919年の「三・一独立運動」に対して、日本は軍隊・警察によって徹底的に弾圧し、多くの朝鮮人を殺害しました。政治結社が許されていなかった社会状況にもかかわらず、植民地支配の矛盾に直面した農民や労働者が主体となって運動は各地に広がったのです。
三・一独立運動以降、日本はそれまでの武断政治から、一部の朝鮮人に協力させて地位や経済的利権を与える懐柔政策に転換していきます。新聞の発行や集会の開催も、制限付きで許可するようになりました。憲兵警察制度は廃止されましたが、暴力支配の本質は変わりませんでした。三・一独立運動を受け、それ以前は各地域で漁業権の侵害をはじめ生活を守るための抵抗が散発的に行われていたのが、1920年代に組織的な運動に変化したことは重要な意味を持っていました。社会を変える主体としての農民や労働者の抵抗運動は、協同組合を含む社会運動の原動力になったと思われます。
1930年代になると社会主義運動が農民や労働者の間に広まり、支配体制が揺るがされるのを恐れた日本は、農村振興運動をすすめたり、同化政策を強化して、「国体」観念を内面化させる政策を行います。非常に限定されていたとはいえ許されていた自発的な出版や集会は再び抑圧され、20年代に発展した社会運動の多くも改めて潰されていきました。中国侵略戦争が本格化していく30年代後半以降、日本は朝鮮人を炭鉱や工場などの強制労働や軍隊に動員し、女性たちを日本軍「慰安婦」制度に動員していきます。
こうした日本の強圧的な植民地支配を裏付けていたのは、天皇制イデオロギーです。「天皇の恩恵を与えてやる」という欺まん的な姿勢で、日本式の民法(朝鮮民事令)や家族制度を移植し、教育による日本語の強制はもとより、神社への参拝、「日の丸」の国旗掲揚、1940年代に入ると「創氏改名」で日本的な氏制度を強制しました。戦時期には、軍事的な動員に加え、「皇民化政策」による精神的な動員も強化されたのです。日本の植民地支配は、朝鮮人に一方的に「同化」を求め、決して日本人と平等には扱わないという民族差別が貫徹されていました。