生活クラブグループ
市民セクター政策機構

市民セクター政策機構 市民セクター政策機構は、生活クラブグループのシンクタンクとして、市民を主体とする社会システムづくりに寄与します。

●岩根さんの言葉は「応援歌」だった
フォトジャーナリスト 桑原史成

【まもなく発売】季刊『社会運動』2025年10月発行【460号】特集:もっと社会的連帯経済

 岩根邦雄さんが逝去した、という知らせが飛び込んで来た。コロナ禍でお会いする機会がないまま、昨年、棺の中の物言わぬ尊顔を見る事になった。

 僕が岩根邦雄さんと知り合ったのは、67年前の1958年の事である。JR東中野駅の近くに開校した写真学校「東京フォトスクール」の教室である。岩根さんと何処で最初に会話を交わしたかは記憶が定かでない。僕たち夜間のクラスの数人が聴講を終えて行った新宿の喫茶店であったようにも思う。この喫茶店はクラシック音楽で知られていて、岩根さんが皆を先導したように記憶する。

 ここで、新設の写真学校を紹介しよう。日本経済が戦後から胎動しようとする1950年代の終盤、週刊誌や月刊誌が続々と発売され始め、またフランスの映画界で発祥して日本の松竹映画の監督たちに波及した「ヌーベルバーグ」(新しい波)と歩調を合わせたかのような時勢であった。写真学校は、法人化されたものではなくセミナー(講義)を行う塾で、〝現代の寺小屋〟という人もいた。

 写真学校は、写真評論家の重森弘庵や伊藤知巳などが主宰して、昼の部、夜の部、そして日曜の部とあり、生徒(塾生)は合わせて約200名であった。会社勤めの岩根さんや大学生の僕などは自ずと夜の部である。学校には暗室の設備は無い。これまでの写真界では当たり前だった徒弟制度に逆らうかの如く、講義の内容は米国のグラフ雑誌『LIFE』のグラフ・ジャーナリズム、ファション誌の『ヴォーグ』について、またコマーシャル・フォト(広告)の潮流についてなど新鮮な情報に塾生は好感を持っていた。余談だが、写真学校の重森弘庵校長は京都の出身で、同郷の岩根さんとは通じ合う話題があったように記憶している。

(抜粋)

季刊『社会運動』460号掲載記事「岩根さんの言葉は「応援歌」だった」。フォトジャーナリスト桑原史成氏による寄稿。桑原氏が、岩根邦雄氏の逝去に際し、二人の出会いから、岩根氏の言葉が写真家としての活動を支えた「応援歌」であったことを回想する文章。桑原氏の略歴も記載されている。

インターネット購入