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<歴史の窓1> 1919年、韓国協同組合運動史の元年

キム・ヒョンミ



3.1運動と協同組合運動


 2019年は、1919年に起きた3.1運動〔1919年3月1日、ソウルのタプゴル公園に多数の民衆が集まり、日本帝国の植民地支配からの独立を宣言したことを契機に朝鮮全域に広がった、非暴力の独立運動〕と大韓民国臨時政府〔1919年4月11日に上海で樹立〕から100周年であり、韓国政府は記念式典を行った。1919年当時、3.1運動の精神を受け継ぐ大韓民国臨時政府は臨時憲章を公布し、第1条において民主共和国を宣言したが、それから100年を迎えたのである(1)。当時、3.1運動は全国各地に広がり、連日のように運動が繰り広げられた。その時に活躍した学生、青年、労働者、農民、女性が3.1運動の精神を継承して、その後の大衆運動を展開し、さらに独立運動へと身を投じていったのである(2)。

 
 朝鮮半島で協同組合運動が生まれたのも、3.1運動後のことだった。「協同組合運動社」の活動家で、『東亜日報』の記者だった咸尚勲(함상훈、1903~1977)は、次のように述べている。


 「朝鮮で協同組合運動が生まれたのは、1919年の3.1運動以後のことだった。まだ協同組合という名称ではなかったが、消費組合あるいは何々商会といった名称の協同組合が数多く生まれた。朝鮮にあらゆる新たな思潮が押し寄せたことにより、我々もしかるべき消費活動を通して、可能なかぎり経済を回復させようとした。そのことが運動の動機だったのである。ただし組織の形態は、現在の協同組合のように、1人1口の出資や、利用実績に応じた剰余の配当といった明確なものではなかった。」(3)


 1920年4月1日には、3.1運動を追い風にして『東亜日報』が創刊された。創刊から2 年後の紙面では、「1919年の運動に朝鮮人が実際にかかわったことで、教育熱が高まった。子どもも大人も向上しようと懸命になり、まさに感激の涙を禁じ得ない。各地に消費組合、労働団体、青年会など、様々な結社が百花繚乱のごとく発足し、社会的、経済的、宗教的、文化的」に発展していった、と振り返っている(4)。

 
 それでは3.1運動以前には、朝鮮半島に組合のような組織は全く存在しなかったのだろうか? いや、そうではない。朝鮮半島では長きにわたり、相互扶助の組織として「契」が活発に行われていた。しかしながら相互扶助組織である組合や会は、日本による帝国主義的侵略によって、朝鮮半島へ日本人が移住して以降に、朝鮮人社会で形成されたものである。1904年4月には、48名の居留日本人が郡山農事組合を結成した。当時の朝鮮では土地売買のための登記制度が整備されておらず、居留日本人は土地を二重三重に転売されてしまうことがあった。その対策として郡山に居留する日本人は、農事組合を結成して、共同で組合員の土地所有帳簿を作成し、二重抵当や転売される危険性を防いだのである。さらに1906年11月には、彼らは大邱農会を組織している(5)。朝鮮人は、先に居留日本人が組織した、こうした組合や会を見本にして――1907年に日本の統監府が制度化した金融組合や朝鮮総督府が導入した産業組合は論外の事例だが――、社会の様々な分野で相互扶助組織や同業組織、あるいは利益団体の性格を持つ組合を、1900年代、そして日本による韓国の強制併合以降に誕生させた。当時の新聞を調べると、薬業組合、木工組合所、裁縫組合、客主〔李氏朝鮮時代に発達した商業機関の一つ〕組合、農産組合所、漢城小手工組合所、漢城妓生組合、農事組合所、清潔組合所、公益組合所、煙草組合所、養鶏組合などが設立され、さらには既存の職業だけでなく、新たな事業分野でも多くの組合が登場した。

 
 しかしながら、こうした組合をそのまま協同組合運動と見なすことはできない。これらは新たな形態の結社だったが、自分が生き残るための利益団体、あるいは同業団体の性格が濃厚だったからである。そもそも社会運動とは、既存の社会構造と制度を変革するために自発的に参加した人々による持続的で集合的な活動であり、抑圧と搾取、不平等と不義に対する自覚から発生するものである。そして3.1運動こそ、当時の朝鮮半島における朝鮮民衆にこうした自覚を集団的に呼び起こした運動だった。無力感のなかにあった民衆が集まり、「幾度かの地上天国建設運動にとどめを刺した」運動であり(6)、覚醒した民衆が、今、この場所で朝鮮の現実を変えるため、数多くの団体を組織して団結し、形成した運動だったのである。


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