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市民セクター政策機構

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第10章 無教会の信仰と協同組合の精神
――生命運動と共同体の生産様式

ハン・ソンフン


1.序:信仰と無教会主義


 宗教が協同組合運動に与えた影響は実に大きい(1)。韓国ではプロテスタント、カトリック、無教会主義、円仏教、天道教(東学)など、多彩な宗派が様々な形で協同組合運動を展開してきた。本稿はそのなかで、「無教会主義」の信仰がどのようにして韓国で協同組合運動へとつながったのかを取り上げる。


 キリスト教の一派である無教会主義は、「信仰は制度としての教会から自由であるべき」だとして、「牧師や神父、教会などの仲介者なしに神の前に独立した存在であること」を追求する。無教会主義を提唱した内村鑑三〔1861~1930年〕は『無教会』誌の最初の号で「無教会」について次のように説明している。「「無教会」と云へば無政府とか虚無党とか云うやうで何やら破壊主義の冊子のやうに思はれますが、然し決して爾んなものではありません、「無教会」は教会の無い者の教会であります」。内村は、真の教会は無教会であると主張した。キリスト教の精神が形式的かつ制度化していることを批判し、ひたすらに聖書の言葉と信仰を重視したのである(2)。


 朝鮮半島における無教会の信仰は、キリスト教民族主義を強く志向しながら胎動を始めた(3)。日帝強占期〔日本帝国主義による植民地支配期〕に内村鑑三の影響を受けた『聖書朝鮮』の金教臣(김교신)、宋斗用(송두용)、咸錫憲(함석헌)は、聖書の観点から韓民族の現実を解釈し、その進むべき道を模索した。彼らにとって、自由と独立の精神は何らかの器に封印できるものではなく、キリスト教も本来、器ではなく精神だった。こうして、金教臣と咸錫憲は、聖書と信仰だけに簡素化された無教会集会のあり方を受容したのである(4)。


 他方、内村鑑三が語るキリスト教知性の構造を、近代性という観点から把握しようとしたのが、社会学者の朴永信(박영신)だった。朴永信の分析は、内村は日本の社会秩序の変革に没頭したピューリタン(清教徒)的な進歩精神による「倫理的独立性」の持ち主であり、キリスト教的な生き方と神との交わりを主体的に回復させたいと考えた、というものである。内村によれば、イエスを信じる人々が自由な意志でつくった精神的な集まりこそが教会本来の性格だったのである(5)。


 なお近年、韓国では、無教会主義の系譜と共同体運動、プルム学校の教育史的意義、代案教育(alternative education)の思想的基盤に関する研究が大きな成果をあげている(6)。そこで本稿では、民族教会史論が注目してきた「信仰共同体」よりも普遍的な形をとる無教会の信仰が、地域共同体や協同組合運動に与えた影響とその関係について光を当ててみたい。


 無教会信仰の先駆者たちは、共同体と協同組合の運動を展開したが、本稿では李贊甲(이찬갑)が設立した「プルム高等公民学校」と「プルム農業高等技術学校」(以下、プルム学校)が協同組合の核となった忠清南道洪城地域の洪東と、張起呂(장기려)医師の名で代弁される釡山地域の「青十字医療協同組合」を主に取り上げる。無教会の信仰が目指した価値を具体化した協同組合運動の原則と活動を見ながら、その親和性の糸口を掴みたい。


2.無教会主義の生命観とシアル(平民)の共生



 内村は、神の前に独り立つという、独立した存在であることを重視し、偉大な凡人、すなわち「平民」を強調した。内村にとって、平民とは「道徳的・宗教的概念において、神による全人格的な変革を通じて自由と独立を与えられた、正義と真理を追求する預言者的人間」である。すなわち、神とおのれの力の他には何も頼ろうとしない存在が平民なのである(7)。このような理想的人間の形として「平民」を設定したのは、人格を尊重して個人を確立させると共に、普遍的価値を有する日本国民を育成しようとする内村の意図があった。


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