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市民セクター政策機構

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第11章 日記資料に示された1960~70年代の農民の生活と農協

キム・ヨンミ


1.農協制度の裏にある歴史


 朴正熙(박정희)政権時代、農協は農民のための組織ではなく、政府に依存する官の組織となってしまった、と一般的に見られていた(1)。しかし、すべての組織には運営する人々がいて、組織による制約があっても、それぞれが自分の利害に合わせて活動空間を絶えずつくり出し、状況を変化させてい
く。水面下で展開するこうした動きが歴史を変える原動力となる。

 
 硬直的で政治化した農協が、実際に農民とどのような関係を結んでいたかを知る非常に興味深い資料として、農民個人が残した日記がある。本稿では、1959年から2005年までほぼ一日も欠かさず記録された農民の日記を通じて、朴正煕政権下で農協と農民社会の間にどのような相互作用があったのかを観察する。農民が農協に縛られながらも、農協に対してどのように働きかけていたのか、その具体性と躍動性に注目したい。

 
 今から紹介する日記は、京畿文化財団が公刊した『平澤大谷日記』である(2)。著者は申権植(신권식)氏だ。まず、申権植の住む村は、平澤郡〔現・平澤市〕青北面高棧里にある自然村〔村落共同体の基礎となる地域社会〕、大谷村である。

 
 高棧里は大谷村を含む8つの自然村で構成されている。高棧里の住民の大半は本貫地〔本貫とは父系祖先の発祥の地のことで、祖先や親族とのつながりの強さを自覚させる機能を持つ〕が同じ慶尚北道高霊申氏で、申権植もその一員である。

 
 申権植の略歴は次の通りである。1929年に大谷村で生まれ、小学校を卒業後にソウルに上京、中学校に通いながら新聞配達をして家計を助けた。彼がソウルに滞在した時期は、ちょうど日本からの独立解放直後にあたる。当時、新聞配達をした経験から、彼は政治意識の強い農民になった。兵役を終えた1959年、故郷に戻って青年農夫となった後も、彼は新聞を読むことを怠らず、村のサランバン〔居間の意〕と呼ばれる集会所でラジオを聴きながら同年齢の若者たちと政治意識を共有していた。日記によると、彼は李承晩(이승만)政権に対して非常に批判的で、1960年の4月革命〔李承晩によって不正に行われた大統領選挙をきっかけに、学生や市民が抗議し大規模なデモを行い政権が倒れ、その後政権についた民主党が民主的改革を進めた〕を支持し、民主主義を重要な政治理念と考えていた<資料1>。その一方で、1960年代半ばには村と平澤のために民主共和党〔朴正煕大統領率いる与党。略称は共和党〕の党員となった。つまり、4月革命世代としての批判精神を強く持ちながらも、共和党員として現実の政治に参加するという、裏表が一致しない行動をとったのである<資料2>。


<資料1 >

 新聞を見るたびに怒りが沸き上がる。馬山事件〔馬山の学生・市民が不正選挙に抗議してデモを行い、警察と衝突した〕は正義を求めるデモだった。それをまるで赤の仕業と決めつけている。権利を剥奪されたわが国民に、いつになったら真の民主主義の春が訪れるのだ

ろう。(1960.3.23)

 
 軍事革命。午前3時。田んぼに出ようと起きてラジオをつけたら、おかしなニュースが聞こえてきて驚いた。いったい何だ……クーデターだろうか。ポストの横取りだろうか。張勉政権に大きな過ちはない。わずか8、9カ月では大きな過ちをおかす時間もないだろう。ただうまくやろうとやみくもに動いて、一貫性のない政治ではあった。(1961.5.16)〔4月革命で政権に就いた張勉を首相とする民主党政権は、派閥間の確執の末、1961年5月16日に朴正煕が計画・指揮した軍事クーデターによって短命に終わった〕


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