戦後80年。長生炭鉱の遺骨収集
長生炭鉱は山口県宇部市沖にあった海底炭鉱です。アジア太平洋戦争開戦2カ月たらずの1942年2月3日早朝、海岸から1000mの坑道で天井が崩落、183人が亡くなった水没事故(海底炭鉱の事故を水非常という)が発生し、閉鎖されました。犠牲者のうち136人が朝鮮人、47人が日本人でした。長生炭鉱の危険性は当時から知られており、漏水も常態化していました。さらに坑道は、当時の鉱山法の規定よりもはるかに浅く、違法な操業でした。つまりこれは国から石炭増産が至上命令とされたなかで起きた人災なのです。朝鮮人労働者はこうした危険な場所に送られ、劣悪な環境で厳しく監視されました。
事故の発生時、坑道にはまだ大勢の人がいましたが、地上の坑口から溢れる海水を止めるために、経営者は坑口を板でふさぎました。駆け付けた労働者の家族は、助からないことが分かり号泣したそうです。地元の寺の住職が一晩で書いた犠牲者全員の位牌には、朝鮮人犠牲者の名前は創氏改名で書かれました。1982年には地元有力者が「殉難者の碑」を建立しましたが説明も犠牲者の名もなく、地元でも事故は忘れられていたのです。
市民団体が追悼碑を建てる
1991年、水非常の歴史を知った市民が「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」を発足し、遺構である2本のピーヤ(排気、排水口)の保存と、殉難者の碑に代わる新しい追悼碑の建立を目的に活動を開始。生存者や遺族を探し、その過程で韓国遺族会ができ、家族のような関係を結んでいきました。植民地支配の歴史を追悼碑にどう表現するかの議論に長い時間をかけました。2013年に追悼碑ができて、刻む会は目標を達成したと考えていましたが、遺族は遺骨を故郷に連れて帰りたいと要望しました。こうして14年に会の目的を遺骨収集と返還に据えて新たな活動を始めます。活動には日韓の高校生、地元の企業などが協力してきました。
場所が不明になっていた抗口は24年9月に発掘されました。この時の集会では韓国と国内の遺族が来られて、手を取り合っておられました。日本人と朝鮮人が共に犠牲になった事故は他にもありますが、一緒に祈るような光景はあまりありません。互いの苦労をねぎらうような様子に、私も言葉にならない思いがこみ上げてきました。
坑道の潜水調査には、世界的ダイバーの伊左治佳孝さんが名乗り出て、韓国人ダイバーの金秀恩さん、金京洙さんとともに奮闘。障害物や崩落のため危険な作業となるので、多くの市民が現地で潜水調査を見守っています(25年8月末、ご遺骨が見つかりました)。
日本と韓国の政府の対応と今後の課題
刻む会はこの間、日本政府に対して遺骨発掘の協力を求めてきました。本来なら国策による犠牲者に対しては、国が責任を持って調査、遺骨を収集して遺族にお返しすべきだからです。しかし政府は重い腰を上げず、現地視察すらしません。他方、韓国政府は協力の意向を示して、担当者を現地に派遣しました。加害側と被害側の対応はこんなにも違うのです。
今後の課題は、ダイバーの安全を確保するための資金集め(2026年2月に外国人ダイバー数人が参加の予定)、遺骨の返還方法、日本政府との交渉継続です。共同代表の井上洋子さんは「2025年は敗戦と植民地解放から80年。日韓政府が一緒に遺骨収集に加わることで、私たちが過去に向き合う大きな一歩になれば」と語ります。
皆さんにも関心を寄せていただきたいと思います。
最新情報は、長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会HPへ。
https://www.chouseitankou.com/
電子書籍『韓国協同組合運動100年史』(日本語版)
発行・市民セクター政策機構、発売・ほんの木、2024年刊、5000円(税別)
韓国で出版された本書を全編日本語訳。1919年の三一独立運動は、民衆が消費組合などを設立する契機となった。以来2010年代までの協同組合運動史をテーマ別に記述。当機構HPで試し読みできる。







