生活クラブグループ
市民セクター政策機構

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第1章 消費組合の出現と協同組合論の勃興
――1920~30年代の『東亜日報』の議論を中心に

ユン・ドギョン


1.協同組合の出発を促した国内外の情勢変化


 金融組合と産業組合は、朝鮮半島で最初の近代的協同組合だった。しかしこれらは、朝鮮総督府から厳しく干渉された官製組織で、日帝の支配の道具としてたびたび利用された。そのため自主的な協同組合とはいえなかった。朝鮮で自主的協同組合の議論が進み、協同組合運動が展開したのは、1910年代後半に国内外の情勢が大きく変わってからであった。

 
 第一次世界大戦は、勃発当時は帝国主義列強間の利権を巡る帝国主義戦争だった。しかし第一次世界大戦の末期に起きたロシア革命により、戦争の構図が大きく変わった。ソビエト連邦のボリシェヴィキ政権は、10月革命成功後の1917年11月8日に「平和に関する布告」を発表した。そのなかで掲げられた民族自決の原則は、世界各地の抑圧された弱小民族の独立欲求を刺激した。また、1918年1月には米国のウィルソン大統領が、戦争の終結と民主主義の永久平和の計画として「14カ条の平和原則」を提唱した。この主張は植民地の被抑圧民族に自決を意味するものとして受け止められ、朝鮮を含め全世界で民族自決運動が高揚するきっかけとなった。しかし、1919年1月18日に開催されたパリ講和会議と6月28日に締結されたヴェルサイユ講和条約を経て、ウィルソンの平和原則が「勝者のための方策」に過ぎず、戦勝国の植民地には全く関係ないことが明らかとなった。

 
 一方、第一次世界大戦とロシア革命の結果、日本の天皇制と類似した体制であったロシア、ドイツ、オーストリアで君主制が崩壊した。もはや日本は世界の列強のなかでほぼ唯一の、絶対君主制を原理とする国となった。その日本でも1918年に全国的に起きた「米騒動」をきっかけに、民衆は明治維新以来の体制に対して抵抗を見せた。「大正デモクラシー」と呼ばれるように、政治・社会・芸術など幅広い分野においても変化が起こった。中国においても1919年に「5.4運動」と呼ばれる新文化運動が広範囲に展開した。このように、世界でデモクラシーと社会変革の風が吹き始めた。

 
 植民地朝鮮では1919年、全土で数百万人が参加した「3.1独立運動」が起きた。この運動は日帝の植民地支配体制に大きな動揺をもたらし、その後に欺瞞的ではあるが、いわゆる「文化政治」と呼ばれる支配体制に変わった。何より労働者・農民・青年・学生たちによる民衆運動が急速に広がり始めた。また、社会主義思想が朝鮮へ短期間で流入し、これを基盤にした社会運動が広がり、徐々に民衆運動と結びついていった。朝鮮半島での自主的協同組合運動は、このように急変する世界史的な情勢と絡み合って始まった。

 
 本稿は、日帝植民地下の朝鮮において、協同組合運動を展開した人々がどのような認識を持っていたかを、『東亜日報』の紙上で展開された議論を中心に分析したものである。植民地朝鮮で協同組合問題が公論の場に登場したのは、1920年代初めに東亜日報が消費組合問題を本格的に扱ってからだった。『東亜日報』は1920年4月1日の創刊直後から、全国各地の消費組合の動向など各種の協同組合に関する多数の論説と記事を掲載し続けた。

 
 日帝強占期の『東亜日報』が大衆新聞を標榜していたからといって、現在の『東亜日報』のように庶民向けの一般紙と見なすのは大きな間違いである。『東亜日報』は創刊時において、経営方針を「民族の表現機関であることを自任する」と明言した。例えば、1920年代前半の『東亜日報』の論旨は、社会主義の革命団体である社会革命党およびその後身である上海派高麗共産党の国内支部の主要人物の影響を大きく受けていた。さらに彼らと、宋鎭禹(송진우)などの経営陣、李相協(이상협)編集局長などの2系統の民族主義勢力が、阿吽の呼吸で連帯して運営する状況だった。『東亜日報』で宋鎭禹の主導権が確立されたのは、1920年半ば以降であり、『東亜日報』が日帝に屈従したのは1930年中盤以降である。こうした点に注意しながら、1920年代序盤から1930年代前半までの協同組合諭の変化を探ってみたい。


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