第13章 1980年代以降における信用協同組合の成長と新たな模索
イ・ヒョンベ、キム・チャンジン
1.信用協同組合の社会的価値と韓国信用協同組合
社会的金融(Social Finance)、あるいは社会的連帯金融(Social&Solidarity Finance)とは、持続可能で公正な社会へ発展していくために金融手段を活用することを意味する。それは、信用協同組合(以下、信協)の本質を成すものである。社会的金融が優先的に対象とするのは、国の法制度が規制する主流の金融サービスから疎外された、組織や個人である。融資の方法としては、各種の担保貸付、または無担保での信用貸付、地域社会の共同体に対する社会資本の改良などがある。また世界各地を見れば、不平等と社会的不公正を克服するために、集団的に預金を集めるマイクロ・ファイナンス、社会的インパクト投資、コミュニティ・クレジットなど、様々な方法が社会的金融として試みられている(1)。実際に、社会的価値と財務的収益を同時に追求する社会的金融は、社会的経済企業(Social Economy Enterprises)に対して貸付・保証・出資・投資など資金の供給を行う。社会的金融から提供された資金は、社会的経済企業が設立されてから経営が安定するまで十分に待ってくれる「忍耐強い資本(Patient Capital)」としての特質が必要とされる。すなわち、事業モデルに合わせて資金を供給する際の判断基準としては、「リスクに対する収益率」でなく、「どの程度まで損失に耐えられるか」という点が重要なのである。
信協は、韓国現代史において最も長い歴史を持つ社会的連帯経済企業である。最初の信協は1960年5 月に設立された、釡山の聖家信協である。設立当時、「組合員が自らお金を集め、これを必要な人に貸す事業モデル」であるということに、多くの人々は半信半疑だった。しかし、大多数の庶民が銀行を利用することが事実上、不可能だった当時の状況をふまえると、信協を通じて資金を提供しようとする試みは必要不可欠だった。ドイツでは、既に1860年代に信協を通じて農村と都市の民衆に初めて資金が提供されていた。あれから1世紀が経って、世界で最も貧しい国であった韓国でも自助金融の手法が登場したのである。信協が始まった背景と組織原理、そして活動目標を考えると、信協の登場と存在それ自体が、当時、主流だった金融機関に対する一つの社会的変革だったといえる(2)。こうして信協が韓国に根を下ろしてから60年が経過した。以下では、1980年代以降に韓国信協が経験した量的成長と危機、そして新たな質的発展のための挑戦と模索について検討する。
信協は朝鮮戦争によって社会・経済的に疲弊状態にあった1950年代後半から準備され、1960年に発足した。発足から1970年代まで、信協は、民衆の金融へのニーズを満たしながら、社会的価値を忠実に実践していた。1960年に信協は3組合、組合員数365人、資産10万ウォンで出発したが、1970年には472組合、組合員数7万7,325人、資産8億5,400万ウォンへと急速に増加した。そして1980年には、914組合、組合員数59万人、資産1,840億ウォンを記録した(3)。爆発的な成長といえるこの現象は、当時、信協が社会的にいかに必要な存在であったのかを物語っている。ところが、1980年代から1990年代後半に至るまで、多くの信協は量的成長に力を注いでしまい、運営面において大きな危機を迎えて、政府から強力な統制を受ける事態に直面した。結果的には、オルタナティブな金融機関として持つべき社会的信頼が大きく脅かされることになったのである。そのなかでもいくつかの信協は地域社会の経済的ニーズを満たすために試行錯誤を続けていた。こうした努力は、「協同組合基本法」が施行された2012年以降において、韓国信協が新たな進路を模索するにあたって先を照らす重要な灯りの役割を果たしている。
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