第6章 解放後における協同組合運動の復興と左右の対立
キム・ソンボ
1.解放後に復活した協同組合運動
1945年8月、日本の敗戦により植民地支配は終わりを告げ、韓民族は解放の歓喜に包まれていた。抑圧下にあった民衆がまず取りかかったのは、新たな社会の建設だった。「朝鮮建国準備委員会」が組織されたり、様々な政党が結成されるなど、新しい国家を建設する気運が盛り上がった。しかし、新しい社会や国家を建設することは容易ではなかった。朝鮮半島の南を米国が、北をソ連が分割占領するなかで、政治的な左右対立が深まっていった。そうした政治状況のなかで住民たちの生活を保障する経済活動は、様々な難関にぶつかった。生産者は生産者として、消費者は消費者として、互いに協力し合って難局を打開する必要があった。
解放以降に朝鮮半島各地でつくられた住民の自治組織は、「人民委員会」を樹立する方向へ徐々に集約されていった。人民委員会は、日帝強占期〔日本による植民地支配期〕の末端の行政機構だった町会・洞会などを活用しながら生活品を調達・供給する機能を担った。1946年3月には左派勢力が、人民委員会のネットワークを基盤にして「協同組合中央連盟」を創設した。その他にも注目するべき動きとしては、各学校と職場で消費組合づくりが始まった。また、「戦災同胞援護会」〔民間の社会運動団体〕が、戦争で被災した同胞のために消費組合活動を展開した。他方、「大韓独立促成労働総連盟」などの右派勢力も、こうした左派の取り組みに注目して、各職場や各分野において消費組合を設立し、米軍政から支援を受けて生活品を調達・供給する仕事を始めた。このように残念ながら、解放後の協同組合運動は、左翼と右翼が日常の領域において競合する状態にあった。
一方、日帝強占期において民間レベルで協同組合運動を始めた人々は、日帝末期の弾圧下では活動を中断していたが、解放後には組織を再建したり、新しい組織をつくり始めた。キリスト教界〔韓国語で「キリスト教(기독교)」は一般的にプロテスタントを指す〕は、1945年12月に教派を超えて「キリスト教新民会協同組合」を創立した。1947年3月には、天道教〔<歴史の窓1>の訳注1参照〕界も、「朝鮮農民社」を復活することを決定した。解放直後に活動を再開した「協同組合運動社」も、1949年9月には正式な再建手続きに踏みだした。このように日帝強占期における民間レベルの協同組合運動の三大系列も、解放後の新しい世界で再出発を始めたのだった。
解放後、各地で設立された数々の協同組合や消費組合は、左右の政治勢力の抱く理念が対立する現場に過ぎなかったのだろうか。それともその対立の流れのなかにあっても民衆が生活領域で自発的、自治的な活動を行い、民族的、民主的な社会を建設する現場となっていたのだろうか。1950年に朝鮮戦争が起きると、南ではほとんどの協同組合・消費組合が活動を停止させられてしまった。ここで重要な点は、解放後5年間に活発に展開された協同組合運動が、韓国の民間協同組合運動史において、一つの例外であり、その前後と断絶していたのか、それとも日帝強占期と朝鮮戦争後との間を結ぶ、重要な意義のある期間だったのだろうか、ということである。その答えを考えるのが本稿の目的である。
2.人民委員会と左派の協同組合運動
生活品の調達に行動し始めた人民委員会
日帝末期の朝鮮半島では、戦争の遂行過程で大量の物資が海外へ輸出された。さらに日帝の敗亡後には、物資の流通を担当していた各種の統制機構が正常に機能しなくなった。そのため、解放後に米軍が統治した〔1945年9月7日から48年8月15日の大韓民国成立まで〕南の地域では、生活品が著しく不足した。こうした混乱を利用して物資を隠したり闇市場で売買するなど様々な不正行為が広がった。さらに米軍政が発令した市場の自由化措置は混乱に拍車をかけた。こうして生活品が不足し闇市場が拡大するなかで、市民は自ら生活品を調達するために「生活」領域で協同し、連帯し合うことになった。
(続きは本書をお買い求めください)