序文 『韓国協同組合運動100年史』の編纂にあたって
イム・チェド
韓国の協同組合運動100年の歴史は、民衆の自律的意志と国家の支配意志とのせめぎ合いの歴史です。わが国は日帝強占期〔1910~45年の日本帝国主義による植民地支配期〕と朝鮮戦争〔1950年~53年休戦〕、反共独裁という過酷な歴史をたどるなかで、どの国よりも強力な国家体制を形成してきました。しかし、その国家体制は民衆の意志に基づいた共和的な土台ではなく、それとは無関係か、さらには逆に上からの、あるいは外部からの要求と狭隘な理念に基づくものでした。そのため、民衆による下からの要求と主張によって幾度も正当性の危機に陥りました。したがって、最近よく耳にする「国家とは何なのか?」という疑問は、少なくとも私たちにとっては目新しいものではありません。むしろ、私たちが注目しなければならないのは、圧倒的な国家の威力の前に屈することなく前進してきた、下からの民衆の意志を掘り起こしていくことだろうと思います。
協同組合運動は200年前の19世紀初頭のヨーロッパで誕生し、今から100年前、朝鮮が衰退して西欧勢力が東漸した20世紀初頭の東アジアに上陸しました。わが国では1920年1 月に全羅南道の木浦で物価の高騰を憂いた青年有志たちが、資本金として当時の金額で15万円を集めて消費組合を発起し、日用品を供給する売店を開いたのが消費者協同組合の始まりであったと記録されています。もちろん木浦消費組合が結成される以前から、すでに妓生〔伝統社会において宮中などで歌舞奏を提供することを生業とした女性〕や貧民、牛馬車運送業者、行商人、小作人、理髪店主、油商人、タバコ商人など、多様な職業や業種別の組合が雨後の筍のように誕生している状況がありました。時勢の急変や生存が脅かされる社会経済的状況の下で民衆が自らの利益を協同で擁護したり、互いに助け合って共生しようとするのは昔も今も変わりません。しかし1930年代になると日帝は植民地統治の安定化を図るために、植民地民衆の血を絞る官製の協同組合を除き、民間の自主的な協同組合を弾圧・解体し、さらに「アカ(赤)」という汚名を着せて悪名高い治安維持法で討伐するという蛮行を犯しました。当然、協同組合運動家は身を潜めるほかありませんでした。
8.15解放後〔1945年〕、協同組合運動家たちは活動を再開しました。大韓独立促成労働総連盟や戦災同胞援護会などを中心に消費組合が組織されたのです。解放直後の混乱を克服するなど、当面の生存を保障するために活動するなかで、協同組合運動は復興の機会を迎えます。しかし、援助物資や借款を分配する決定権と流通経路を掌握した米軍政〔1945年9月~48年8月〕と李承晩(이승만)政権〔1948年8月~60年4月〕による妨害と、当時、左右対立する理念の勢力図によって、協同組合運動は再び挫折を経験することになります。解放直後における国家権力の空白状況のなかで、民衆による下からの協同組合運動を中心にして新たな国家秩序を設計する機会を逸してしまったことは、重ね重ね残念でなりません。そして、それに続いた朝鮮戦争と分断、極右反共体制によって、長い間、韓国の協同組合運動は暗いトンネルを歩まねばなりませんでした。
4.19〔1960年の4月革命、訳注1〕直後の釡山でメリー・カブリエラ修道女〔Mary Gabriella Mulherin, 1900~1993〕が始めた信用協同組合運動は、韓国協同組合の内なる発展が挫折した廃虚の上に、新たな跳躍台をもたらした特筆すべき出来事でした。高利率に喘いで自立の機会を失った貧しい民衆から、信用協同組合はとても高い評価を得て急速に広まりました。5.16クーデター〔1961年、訳注2〕で軍事政権を樹立した朴正熙(박정희)は、彼自身が一時期社会主義に心酔したこともあって、協同組合の本質と経済的意味、その実用性を十分に認識していたと思われます。実際に朴正熙政権は、信用協同組合と農業協同組合を体制内に吸収、管理して肥大化させました。そして彼は、財閥中心、輸出中心、工業中心の経済政策が生み出した悪しき結果を緩和させ、庶民経済と農家経済の破綻を隠す手段として、これらを積極的に活用しました。「官製」、「公共機関」、国家官僚機構の「代理人」等々、後に私たちがよく耳にすることになった協同組合に対する歪曲された認識や先入観は、ほとんどがこのことに由来していると言っても過言ではないのです。
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