第12章 農協改革運動
――農業協同組合の民主的改革に向けた粘り強い熱意
キム・ギテ
1.現場における協働への熱意を妨げた非民主的な制度化
「協同組合は民主主義の学校」と言われる。協同組合は単なる事業組織ではない。協同組合は、人が中心となる人的組織(association)という本質を持っており、組織を維持するためには1人1票に代表される民主的な意思決定の構造が必要となる。協同組合の理論では、協同組合が民主的に運営される場合にのみ、組合員の参加を導き出し、事業的にも成功すると説明されている。このような理論に基づき、協同組合は組合員に対して民主主義の価値を伝えていた。ところが、わが国の農業協同組合(以下、農協)は、自ら標榜していた協同組合の価値と原則を守ることができなかった。1980年代まで農協は事実上、政府の下部組織であると思われてきた。こうした状況を変えるため、1970年代以降、農民運動の指導者たちは農協の民主化と改革を強調し始めた。こうした運動は1980年代以降、一般の農民へと広がってきたのである。
それまでの農協が、農民組合員による自主的な組織として位置づけられず、農業の専門家からは協同組合らしくないと批判された理由は大きく3つある。それは、官が主導して制度を整備したこと、植民地時代からの残滓を徹底的に清算できなかったこと、役員が任命制によって選出されたことである。事実、これらの理由は組合長の直選制が導入された1988年まで、農協のアイデンティティと活動を評価する際に、大きな影響を及ぼしていた。
協同組合らしくないと批判された第1の理由は、官の主導によって制度が整備されたため、農民組合員の自発的な取り組みが妨げられたことである。官主導の下で農協に関連する制度が整備される際は、農民組合員の意思を反映することではなく、省庁の間で発生する対立や抗争や大統領の意向が重要な要素となった。「農業協同組合法」が制定された1957年当時から、官が主導して制度を整備したことは批判されてきた。
官による許可、認可、承認を要する事項を、国家の存立に必要な最低限度まで削減すること、それと同時に、民主主義に基づく自治力を最大限に活用して、民衆を官が支配する道を防がなければならならない。(中略)〔農民が自治力を握っていたら、〕問題を起こした配給の責任者や不正をおかした職員たちを、間違いなく農民が摘発し、〔配給の仕事から〕排除することになっただろう。(中略)力の弱い民衆をばらばらにしたまま置き去りにして、官の力〔だけ〕を強化すれば、力関係の不均衡はますます拡大していく。こうした事態は必然的に、腐敗が日増しに深まっていくことに帰結することを理解しなければならない(1)
第2の理由は、植民地時代の残滓が正しく清算されなかったために、金融組合〔朝鮮総督府が植民地朝鮮の農村を統治するために組織した団体〕の勢力が、農協の意思決定に影響を及ぼし続けていたことである。1961年に〔農協と、金融組合の業務と資産を委譲された農業銀行の統合を目的とする〕「統合農協法」が制定されたが、金融組合および金融組合連合会の構成員たちが農協に引き継がれ、彼らが農業協同組合中央会の構成員の多数を占めていた。そのため農協には金融中心的な官僚主義が現在まで温存されたのである(2)。
この問題については、1966年に農林部〔「部」は、日本の「省」に相当〕が作成した農協制度審議委員会の報告書にも指摘されている。
日帝下で造成された協同組合を遠ざけようとする傾向が引き続き再生されたために、国内ではこのような混乱および、時間と努力の浪費が起こっていた。またそれは、古い金組(3)の勢力を継承し、維持しようと動き、官僚主義の所産として残っていた無分別な省庁間の勢力争いの結果であった。さらにいえば、これは日帝下の総督政治、つまり農民への収奪を統治の基盤に置き、政策の手段として農林団体を行政の別動隊にしようとした政治を改善できず、過去の惰性をそのまま存続させてきた、自由党執権12年間による悪政の所産といえる。(中略)〔農協と農業銀行が〕統合された後、農協は政争の焦点からは逃れられたものの、金融組合への回帰を防ぐため様々な努力をしたにもかかわらず、(結局、農協は、)金融組合へと後退してしまった。そのため行政庁の一部かのような農協の官僚的な属性は、農協の機能を痳痺させたのだった(4)。
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