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市民セクター政策機構

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第18章 韓国協同組合の国際交流と連帯の活動
――20世紀初頭の外国モデルの受容から21世紀の国際協力まで

キム・イギョン


1.韓国の民間協同組合、国際交流・連帯の意味


 本稿は、韓国の協同組合が国際社会とどのようにつながり、変化し、発展してきたのかに焦点を当てる。時期的には、日本植民地時代から解放後の産業化期、民主化期に至るまでの100年を検討する。100年の歴史を概観するために、2つの観点から分析した。第1 は、外国の協同組合モデルの導入と応用範囲だ。新聞・雑誌や現地訪問などを通じて協同組合の概念を導入したことと、国際研修の経験や事例の共有が該当する。第2は、財政および人的サポートの観点である。本稿で注目するのは、現在の協同組合運動に影響を及ぼした主な出来事と事例である。


 20世紀初頭、激変する国際秩序のもとで朝鮮は国権を喪失した。複雑な状況のなかで、社会主義、アナーキズムなど多様な思想が流入し、協同組合の概念も朝鮮に受容されていった。農村で起きていた問題を解決するために、イギリスの消費組合やデンマークの農村協同組合、日本の産業組合などが紹介された。そして独立運動、自主経済の一環として、外国から協同組合のモデルが導入され、活用された。しかし、日帝強占期〔日本帝国主義による植民地支配期〕には、官製組合からの圧力や結社の監視、文献や思想の検閲が行われた。こうした抑圧にもかかわらず、朝鮮の人々は外国の多様な事例と理論を活用し、協同組合を設立した。


 1945年の解放以降には、国際的な支援を受けたり、交流が行われた。1960年代には信用協同組合(信協)の拡大や「協同教育研究院」の設立を通じて、協同組合運動の土台が築かれた。加えて、消費者生活協同組合(生協)運動の場合では、1980年代以降に日本の生協や共同体運動団体との交流が始まり、産業文明の弊害に対抗する市民参加型の環境・生命運動を提案した。


 2000年代に入ると健康な食べ物に対する関心の高まりなどを背景として、生協では組合員の組織化が進み、成長した。加えて、フェアトレードや国際開発協力にも広がり、生協運動の国際連帯は新たな段階に入っている。つまり、韓国の協同組合は自主独立を目指して、外国から協同組合政策・理論・事例を取り入れることから始まり、解放と朝鮮戦争の苦難とそれに続いた民主化闘争という厳しい時代のなかで、信協と生協の運動を芽吹かせ、今に至った。そして、100年が過ぎた現在、韓国の協同組合はフェアトレード、協同組合の国際連帯などを通して社会的責任も果たそうとしている。


2.日帝強占期、自主独立に向けた外国モデル受容


 1920年前後には、イギリス、ドイツ、デンマークなどの協同組合が『東亜日報』『開闢』などの新聞や雑誌で本格的に紹介された。それ以前には、安昌浩(안창호)などが独立運動を行う地域や拠点を確保するための方法論として協同組合を導入しようとした記録があるが、さらなる具体的な研究が必要である。1920年代以降、天道教〔訳注1〕を筆頭にYMCAなど多様な組織が協同組合の設立に取り組んだ。帝国主義下の「内地」日本では1900年、農民の離農と貧富の格差を解消するためにドイツにならって産業組合法が制定されたが、一方、日帝は、植民地朝鮮においては1907年に地方金融組合を設立するなど、官製協同組合を導入した(1)。朝鮮総督府は1918年に金融組合令、1926年に朝鮮産業組合令を制定して官製協同組合を強化したが、それにもかかわらず、植民地朝鮮では、外国から帰った留学生と知識人が中心となり、自主経済を実現するための民間協同組合を設立した。当時の新聞と雑誌は、協同組合を経済運動の一環として紹介したが、その1つ目のモデルと思想家は、イギリスのロッチデール公正先駆者協同組合(以下、ロッチデール)とロバート・オーウェン(Robert Owen)だった。


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