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市民セクター政策機構

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第4章 協同社会の実現に向けた協同組合運動社の挑戦期

チョ・ヒョンヨル


1.民族運動・社会運動の手段として協同組合運動を選んだ日本への留学生


 1926年5月、日本・東京の早稲田大学近くのスコットホールに100人余りの朝鮮人が集まった。彼らは日本の大学と専門学校に在学する留学生であり、この日、「協同組合運動社」の創立総会を行ったのである。当時の新聞によると、会員は140人を超えたという(1)。一団体の会員数としては、決して少ない人数ではなかった。


 総会では、庶務、財務、編集、研究、宣伝、調査、経営など7つの部署の設置と責任者を決め、続いて組織の目的と活動方針を決定した。綱領は「1.我々は、協同自律的な精神のもとで、民衆的な産業管理と民衆的な教養を促進する。2.この目的を貫くために、組合精神を鼓舞し、組合の実経営を期する」と掲げた(2)。すなわち、自主的かつ相互扶助の精神を基礎にして、民衆による産業の育成と管理、教育を行うことを目標とした。そのために協同組合の精神を広く伝えて、組合を実際に経営するという志を明らかにしたのである。創立の翌年に発行した刊行物において、この精神はさらに明確になっている。すなわち、協同組合とは、経済的弱者が互いに助け合うことで経済的に向上し、資本主義の欠陥を取り除こうとする理想の下に結成される、経済的な組織体である、と彼らは考えたのである(3)。


 協同組合運動社は、協同組合運動史においていくつかの注目すべき特徴があった。例えば、協同組合運動社に先んじて始まったキリスト教青年会(YMCA)農村部と、天道教〔<歴史の窓1>の訳注1を参照〕の朝鮮農民社と比べてみよう。これらの団体は、1925年以降、農村運動を展開しながら次第に協同組合へ関心を持つようになった。それに対して協同組合運動社は、比較的早い段階から協同組合という言葉を前面に掲げて活動した。また協同組合運動社は宗教団体ではなく、日本に留学した学生たちの自発的な結社として出発した。朝鮮全土に広がった本主義がもたらした問題に対する民族運動・社会運動として協同組合運動を推進したのである。さらに1945年に日帝から解放された後も主導層が同名の団体を再建し、これを通じて労働_運動や革新系の政治活動などに参加したことも興味深い点である。


 したがって協同組合運動社の活動に光を当てることは、日帝強占期〔日本による植民地支配期〕における協同組合運動史を様々な角度から理解することにつながる。植民地支配とその影響下にあった社会体制を克服する論理を、協同組合運動がどのような方法で生み出したのか探究する事例だからである。よって、本稿の第1目的は、協同組合運動社の活動の過程を時系列に検討することにある。そのうえで、協同組合運動社が「協同社会」の実現を目標として、すべての社会階層が消費者として参加する協同組合に注目して活動したことを確認する。そして紆余曲折の結果、最終的には不成功に終わった挑戦の記録を追うことで、彼らが残した足跡の意義と限界を探ってみたい(4)。


2.日本での活動期:協同組合運動の広報・組織化と新幹会東京支会への参加


留学生組織「ハンビッ」による協同組合研究会の開始


 日本への留学生派遣は、1900年代に大韓帝国皇室が特別に実施したことから始まったが、その後、1920年代においても日本への留学は憧れの的だった。1926年時点の留学生数は3,200人(5)に上ったが、それでも朝鮮全体の人口から見るとまだ少数の特権層に限られていた。そのため日本留学生たちが背負った荷は重く、立身出世をかけた熱望と、朝鮮の現実を打開する活動を模索しようという狭間で、彼らは深く悩むことになった。


 関東大震災の翌年1924年に結成された「ハンビッ」もこうした時代の産物だった。ハンビッは、協同組合運動社の母体になった団体である。当時、朝鮮人留学生全体を代表していたのは学友会という組織だったが、ハンビッを結成した人々は、それとは別の団体をつくろうとしたのである。ハンビッの主導者の1人であり、後に協同組合運動社の中心的な人物となった錢鎭漢(전진한)は、「ハンビッは民族運動を開拓するための核心的な組織体」だったと回想している(6)。他方、ハンビッ会員の1 人だった李瑄根(이선근)と鄭仁燮(정인섭)は、「社会主義運動に対抗することが自分たちの目標だった」と語っている(7)。


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