第7章 朝鮮戦争後に再び始まった協同組合運動
――洪城プルム学校、協同教育研究院
ヨム・チャニ
1.朝鮮戦争後、再び活発化した協同の運動
朝鮮半島において、現代的な意味での協同組合運動は日帝強占期〔1910~45年の日本帝国主義による植民地支配期〕に誕生した。しかし、1930年代半ばを過ぎると、民間によって設立された協同組合は、日帝による農村振興事業に吸収されたり、弾圧によって解散され消え去った。
歴史のなかに消えたかのように思えた民間の協同組合運動勢力は、日帝からの解放を迎えて再び動き出した。例えば、キリスト教系〔韓国語で一般的に「キリスト教(기독교)」はプロテスタントを指す〕や社会主義系が開始した協同組合運動が挙げられる。残念なことに、米国やソ連など外部からの分断圧力のなかで、国民の生活をより豊かにしようという展望について、彼らは合意形成に失敗した。こうして解放後の協同組合運動は、力を合わせて一つの勢力にまとまることなく散ってしまった(1)。かといって協同組合運動の流れが途切れたわけではなかった。朝鮮戦争が終わり廃虚と化した韓国の各地で、多様な形の協同組合が動き出したのである。
朝鮮戦争はそもそも形骸化していた韓国の経済を、文字通り完全に破壊した。当時の経済状況を一言で表せば「貧困の一般化」として説明できる(2)。農村の貧困は、都市以上に深刻だった。1957年の調査では、韓国の農民の約半分が1日3食の食事をとることも厳しい状態だった(3)。食糧が足りない農民は、草の根や樹皮で空腹を満たしていた(4)。農民たちは一刻も早く現金を得るために、やむをえず収穫を担保に前借して、辛うじて生きていた。しかも1956年に、援助という名目で米国の余剰農産物が韓国に大量に輸入されたことで、現金収入の道を閉ざされ、経済的な破綻に追い込まれてしまった。精神的にも文化的にも大きな試練にさらされていた時期でもあった。全人口の約80%が農村に暮らしていた当時の韓国社会において、農村問題の解決なしに多くの社会問題を解決させることは不可能だった。こうして国家と民族の未来を考える若者たちが、少なからず農村に身を投じることになった(5)。都市で教育を受けた若者たちが農村に入り、農民を教育して啓蒙しつつ、農業の生産性を高めるために活動したが、その方法として彼らの相当数が協同組合を選んだ。当時のある農村運動家の回顧によると、1950年代後半には全国的にかなり多くの若者たちが、
小規模の協業農場を立ち上げて運営した。ところが、当時の社会には、協同組合運動を左翼視する雰囲気があった。ほとんどの協業農場が失敗したが、その主な理由の一つには、こうした社会の空気をあげることができる(6)。
これが、1958年4 月に忠清南道洪城郡洪東面に、「プルム学校」が設立された当時の背景である。プルム学校は失敗しなかった。むしろ強固に地域社会で揺るぎなく、協同組合運動を成し遂げていった。
2.プルム学校の協同組合運動
地域社会の発展、教育、そして協同
「かねてより協同組合活動を行うべきだ、学校を開校する時にも協同組合に取り組まなければならないという思いがありました。(…)ですから結局は、教育が大事であり、もう一つ大事なのは協同だ。協同というものは範囲を広げるときりもないし…」(7)
プルム学校を設立した目的は,開校の辞にも見られるように(8)、「民族をよみがえらせ、人間が生まれ変わる」ことだった。都市を中心に置いた教育は「物質教育、看板教育、出世教育という弊害によって人間を滅ぼす」と考え、農村を中心にした「民衆教育、精神教育、実力教育、人格教育」という「新たな教育」をプルム学校の教育理念とした。すなわちプルム学校は信仰を基礎にしながらも、民族としての覚醒や、地域社会の発展のために、協同という方法で社会の問題を解決していく教育運動を目指したのである。
プルム学校と洪城における農村地域社会(もしくは、農村共同体)は、しばしば日帝統治下の平安北道〔現在の朝鮮民主主義人民共和国にある道〕における五山学校の経験が、韓国の社会で実現されたものである、と説明される(9)。代表的な解説としては、プルム学校教師だった洪淳明(홍순명)によるものがある(10)。彼は、キリスト教の宗旨(11)をプルム学校の教育の趣旨(12)とし、教育、キリスト教、そして農村を一体と見なす五山学校の伝統が、李贊甲(이찬갑)を通してプルム学校に受け継がれたと語る。
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