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総論 統制と抵抗を超え、代案を模索する協同組合運動

キム・チャンジン


 本書『韓国協同組合運動100年史 Ⅱ』では、1980年代から最近までの協同組合運動を、農業協同組合(キム・ギテ)、信用協同組合(イ・ヒョンベ、キム・チャンジン)、労働者(職員)協同組合(キム・ヒョンミ)、消費者生活協同組合(シン・ヒョジン)、医療協同組合(パク・ボンヒ)など、分野別に振り返る。そして、韓国協同組合の国際交流・連帯活動(キム・イギョン)を検討し、最後に韓国協同組合100年の歴史を社会運動史の文脈において総括(キム・チャンジン)する。本稿では、各分野の協同組合運動の社会的価値と意味を簡単に言及した後、各執筆者の論旨に基づいて時期ごとの運動展開を要約してみたい。


1.協同組合の成長と苦労、そして国家権力の統制(農業協同組合と信用協同組合)


 資本主義方式の工業化が進んだ国では、ほとんどの農業は生存の危機に追いやられている。農村は人口流出で空洞化し、農民たちは消費のための生産から商業的農業へのシフトを強制された。これは自然な流れではなく、都市を基盤とする国家権力と資本の結託によって起こるため、農民たちは時には積極的に抵抗をすることもあったが、通常はあきらめて受容したり、受動的抵抗に留まった。19世紀中盤以降、デンマーク、フランス、ロシアなどで発展した農業協同組合(農協)は、農民たちが現実の変化を受け入れながらも、より良い生活条件と社会的地位を獲得するために結成した近代的組織である。


朴正煕(박정희)が主導した5.16軍事クーデター直後の1961年6月、国家再建最高会議は、農業銀行と農協(ともに1958年設立)を統合し、信用事業・経済事業・指導事業などを行う総合農協を設立した。国家権力が農業・農村開発政策の一環として、トップダウン式農協を組織したのである。1972年12月に国際協同組合同盟(ICA)に正式に加入した韓国農協は、日本における農協と同じく世界で最大規模の農協に成長した。現在、農協組合員は214万余名、地域別・品目別単位農協は1,118団体、全職員数は1万3,000余名、そして資産は250兆ウォン規模に達している。しかし韓国農協は、農民と社会構成員の大多数から、組合員の権益を保護し、農業拡大を背景に、農協改革運動が大衆化された時の社会的価値を実現する自主的協同組合として認められていないのが実情である。過去60年間、農業・農村の没落が加速化するなかで、農民たちは多大な負債を背負い悲鳴を上げてきたが、その反面で農協は規模を巨大に膨らませてきたためである。


キム・ギテは、農協が協同組合らしくないと批判を受ける理由が、その非民主的な仕組みにあると指摘する。例えば、発足時から官主導で制度が整備されたこと、金融組合という植民地残滓の清算が不徹底なこと、そして中央会の会長から単位組合長に至るまで任命制であったことなど、農民たちの協同の意志を潰してしまうものだった。1987年6月民主抗争の結果、民主化宣言がなされた翌年の1988年に、農協では組合長直接選挙制が導入された。これで農協は国家の下部組織から農民たちの民主的組織として変わることを期待されたが、この巨大な組織では本質的な変化は起こらなかったようである。よって、農民組合員と農民運動家は、1970年代から2000年代まで、継続的に農協改革運動を起こした。「協同組合」という名前を掲げている組織が、このように長年にわたって改革の対象として挙げられるのは、韓国においてはもちろん、世界にも類例を見つけることが難しいといえる。農協が政府の政策を伝達する経路であり、農業・農民問題の解決に消極的だったことは、農民に深い失望を与えた。それゆえ農協改革運動は、自主的協同組合に向けた熱望の大きさを反映していたと解釈できるだろう。


 農協改革運動の歴史は、朴正煕の維新独裁時期である1970年代に本格的に始まった。その先導者となったカトリック農民会は、1972年の事業目標に「農協民主化」を掲げた。1980年代は、本格的な農産物自由化の始まりと商業的農業の期である。農協組合長直接選挙制が実を結び、キリスト教農民会や地域単位の自主農民会も組織を拡大した。1990年には、それまで農民運動を主導してきた団体が一緒になって全国農民会総連盟を結成し、農協改革運動を全国的に展開できる体制を整えた。


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