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<歴史の窓2> 信協人の目で見た初期信用協同組合活動

イ・ヒョンベ


韓国信用協同組合運動の胎動


時代状況

 1950年に勃発し、約3年続いた朝鮮戦争によって韓国の社会経済は壊滅した。被害を受けた韓国の民間人は、死者24万人を含め約100万人に達した(1)。学校および主な建物、寺や教会、道路・橋梁・港湾などの社会インフラの大半が破壊された(2)。戦争が終わっても、人々は生活再建のメドが全く立たない状況だった。

 このような状況のなか、当時の韓国では、私金融〔民間の貸し借り〕の割合が大きく、社会の隅々まで浸透していた。借り手は家庭、商店主、農業従事者などであり、貸し手は貸金業者、親戚、友人および隣人などであった。当時の農村では「長利穀」(春に米を現物で借り、秋の収穫後に利子を含め現物で返済)で農業を営んだりしていた。農村はもちろん、都市でも貸金の利息は月10%以上であった(3)。また、1959年にソウル地域の2,691世帯を対象に調査したところ、その90%が「契」〔朝鮮で発達した相互扶助、親睦組織。村落の共同作業や互助的金融など様々な目的がある〕に加入していた。そして1971年、全国を対象に行った調査によると、65%の世帯が契に加入し、月所得のうち契の払込金は32%に達していた。また、1971年の資料によると、全国に計940カ所の質屋が営業していた(4)。


信用協同組合運動の萌芽

 「韓国信協運動の母」と呼ばれるメリー・ガブリエラ(Mary Gabriella Mulherin、1900~1993)修道女は1960年5月1日、韓国最初の信用協同組合(信協)である釡山の「聖家信用協同組合」を誕生させる。彼女は韓国に「アンティゴニッシュ運動」〔1920年代、カナダのノヴァスコシア州アンティゴニッシュにおける、貧しい農家や漁民のための自力更生運動や協同組合を柱とする地域社会開発運動〕を紹介し、3年ほどの努力の末に純然たる民間運動として信協運動をスタートさせた。戦火を避けて南下してきた数百万の人々は、自由は取り戻せたが家族は方々に散り散りとなり財産も失い、想像すらできないほどの貧しさ、疾病や恐怖に襲われていたが、信協運動はそうした困難を乗り越える力を与えた。

 またソウルでは1960年6 月26日に、「カトリック中央信用協同組合」が設立された。これはソウル地域のカトリック教会を「コモンボンド」〔共同紐帯とも呼ばれ、信協の設立と構成員の資格を決定する基本単位のこと〕として、協同経済研究会の会員たちと張大翼(장대익)神父が創設したものだ。すなわち財産のない庶民が急にお金が必要になった時に、いつでも簡単にお金を融通できる庶民金融として、信協を設立したのである(5)。


信用協同組合の発足と初期活動(6


協同組合教導奉仕会、協同教育研究院

 メリー・ガブリエラ修道女は組合の設立と初期運営の効率性を求め、組合の組織体系と長期的な方策を確立するために、1962年、この事業を主導する常設機構として、「協同組合教導奉仕会」を創設した。

 その後彼女は、組合員の意識教育こそ組合運営の成否を左右する主要な活動であると認識するようになり、協同組合教導奉仕会は1963年7月1日に、「協同教育研究院」として新たにスタートすることになった。

 協同教育研究院の設立の意味や活動は、国内の協同組合運動において非常に大きな意味を持った。

第1に、協同教育研究院の修了生らが全国各地で、助け合い・自助自立の信協精神や協同組合の原則を実現、拡大させる先鋒隊として活動したことである。1962年から信協法制定前の1972年までの約10年間に、1,961人の修了生を輩出し、指導者の養成に力を注いだ。

第2に、教育課程の内容は、信協の教育でありながら、民主主義や協同組合を教育する過程だったことである。1962年2月23日から3月3日まで、協同組合教導奉仕会が最初に行った指導者講習会のタイムスケジュールを見ると、信協の哲学と原則、討論会の運営、組合の設立および運営に必要な実務、そして活発な討論と模擬実習などといった、体系的な内容で構成されていた。


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