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京都朝鮮学校襲撃事件と裁判がもたらしたもの (ジャーナリスト 中村 一成/京都朝鮮初級学校教員 金 志成)

季刊『社会運動』2018年10月【432号】特集:ヘイトスピーチは止められる差別のない社会をつくろう

 それは2009年12月4日に起こった。京都市南区上鳥羽勧進橋町にあった京都朝鮮第一初級学校校門前で、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)を名乗る男ら11人が「スパイ養成機関」「こらチョンコ」「叩き出せ」などの差別的な罵詈雑言を約1時間にわたってがなりたてた。グラウンドのない同校が、隣接する京都市の公園にサッカーゴールなどを設置して使用していることに因縁をつけた、言語道断の差別行為だった。
 初級学校は小学校にあたる。交流授業で来ていた滋賀朝鮮初級学校の生徒を含め、校内にいた子どもたちと教師150人ほどが、拡声器を使った怒号にさらされつづけた。
 駆けつけた警察は、暴言を止めさせようともせず、襲撃者たちがサッカーゴールを倒しても、スピーカーのコードを切っても傍観するのみ。目の前の犯罪行為を黙認し続けた。
 しかも、この悪夢は1度ですまなかった。翌年の1月14日には2度目の「街宣」が、3月28日には3度目の「街宣」が行われた。
 「3度目は学校から半径200メートル以内の街宣を禁止する仮処分決定(注1)が出た4日後でした。法的な手段をとってもなんの意味もないんじゃないかと思いました」と金志成さん。2度とも、人数、暴言ともにエスカレートするデモ隊に対して、警察は見ているだけだった。
 1952年、日本は主権回復と同時に朝鮮人の国籍を剥奪。数十万人の在日朝鮮人は今日にいたるまで課税はされても権利は制限され、官民による差別を受け続けている。日朝首脳会談で北朝鮮が拉致を認めた2002年以降、朝鮮学校はとくにひどい差別を受けてきた。
 「ウリハッキョ(私たちの学校)」と呼ばれる朝鮮学校の歴史は、1945年にさかのぼる。日本の敗戦で植民地支配から解放され、当時、日本にいた約210万の朝鮮人の多くが朝鮮に帰った。様々な理由で残った、あるいは残らざるを得なかった人たちは、各地に朝鮮語(ウリマル=私たちの言語)を教える学校を作った。その数は46年には500校あまりを数えた。
 朝鮮半島が二つの国に分断された年でもある48年、GHQの指示のもと、武装警官が子どもたちや教師を排除し、強制的な学校の閉鎖が始まる。だが、厳しい弾圧に負けず朝鮮人たちは学校を守り続けた。襲撃された学校も閉鎖された後、60年に勧進町に校舎を建て本格的な民族教育を行うこととなった。
「府内最大の朝鮮人集住地域の学校なので、民族教育の場としてだけでなく、保護者や地域の老若男女が集うコミュニティの中心でした。その大事な学校が襲われたのです」(中村一成さん)

(P.57~P.59記事から抜粋)

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