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コラム①「黒糖」
沖縄の人たちは、黒糖生産で何を重視したのか
(沖縄県立芸術大学非常勤講師 比嘉吉志)

【発売中】季刊『社会運動』2022年10月発行【448号】特集:青い海と沖縄 -未来を考える

 沖縄土産の定番でもある黒糖には、17世紀(江戸時代の始め頃)の琉球王国時代まで遡る歴史がある。黒糖は中国貿易の銀を入手するため、薩摩(鹿児島)を通して大坂市場で売却される重要な特産物だった。1879年に沖縄県となって以降も、換金性の高い黒糖は税金の一部にあてられ、新しく発足した沖縄県政は勧業政策の目玉として黒糖の生産を奨励したほどである。それから150年近くの年月を経た現在も、黒糖は沖縄土産の定番として、あるいは「黒糖味」や「黒糖入り」の食品が人気を博し、社会に定着している。ここでは、近代沖縄の歴史を象徴する黒糖をめぐる問題を見ていくことで、生産者である糖業農家の人々が何を重視していたのかを考えたい。


 沖縄糖業の歴史において大きな画期となったのは、1888(明治21)年にサトウキビの作付面積の制限が解除されたことである。それ以前は、食料生産を圧迫せず、過度な供給による値崩れを防ぐために栽培地域が制限されていた。それがこの年に制限が取り払われ、離島を含めすべての地域でサトウキビの栽培が可能になる。冒頭で述べたように、黒糖は換金性の高い商品であったため、サトウキビの栽培は瞬く間に広がり、黒糖の生産量も大幅に増加した。この頃の沖縄では現金による納税も進み、日々の日用品も県外から多く輸入されるようになるなかで、人々には現金を入手する手段が求められた。それは個人や家内(沖縄の言葉で家族や家庭という意味)が生産者として市場経済と対峙しなければならなくなったことを意味していた。


 黒糖の生産量が大幅に伸びた沖縄糖業では、しだいに分蜜糖との生産量の違いが問題になる。分蜜糖とは、サトウキビを搾って煮詰めたものから結晶だけを取り出して作られ、精製糖の原料になるものである。一方で、黒糖は含蜜糖と呼ばれる種類で、サトウキビから絞った糖液をそのまま煮詰めて作られたものである。沖縄で分蜜糖が製造されるようになった後も、その生産量は伸び悩み、近代を通じて含蜜糖である黒糖の生産が大部分を占め続ける。分蜜糖の製造が望まれた当時において、このような沖縄糖業の状況は大きな問題とされた。

 

初めての海外領土である台湾と分蜜糖

 

 なぜ分蜜糖の製造が望まれたのかについては、日本糖業との関係を見る必要がある。日本では1880年代に精製糖の需要が拡大し、香港で生産されたものが多く輸入されるようになった。それがしだいに、精製糖を国内で製造していく方針に切り替えられていく。これは、当時の日本では輸入超過の経済構造が大きな問題とされ、輸入に頼っていた精製糖も自国で製造することが目指されたからである。当初は日本国内で精製糖の原料になる分蜜糖をまかなうことができず、原料としてジャワ糖が輸入されていた。ただ、これでは国内で精製糖を製造することはできても、その原料を輸入に頼ったままとなり、貿易収支のマイナスは十分に解消できない。そこで注目されたのが、1895(明治28)年に日清戦争の勝利によって日本が初めて獲得した海外領土の台湾である。台湾では分蜜糖を製造できる近代的な製糖工場とそれを支える原料確保の制度が急速に整えられていき、一躍日本糖業において最大の分蜜糖の供給地となった。台湾糖業は日本経済における砂糖の輸入代替化政策のもと、その求めに対応し発展したのである。

(P.16-P.18 記事抜粋)

 

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