生活クラブグループ
市民セクター政策機構

市民セクター政策機構 市民セクター政策機構は、生活クラブグループのシンクタンクとして、市民を主体とする社会システムづくりに寄与します。

 ㈱青い海では、昔からの塩田地帯であった泡瀬に製塩工場を建設しようと基礎工事を始めた。しかし、よそ者が入ってくると反対運動が起こり、工場建設が阻止された。泡瀬をあきらめ、74年11月に沖縄市高原に第1号の工場が完成する。翌75年1月に操業開始。知念さんは、親族や知人に声をかけ、4名の役員で会社を運営した。誰一人として、塩づくりの知識も経験もなかった。そこで、かつて塩田に従事していたという人を2人採用し、塩づくりの業務をしながら指導も受けた。素人がよくここまでやれたと、後で振り返ると信じられないような状況下での会社創設だった。


 1975年1月に 「シママース」の生産を開始し、2月から沖縄県内で販売が始まった。ところが、4月4日に沖縄県生活福祉部が記者会見し、「『青い海』の塩は、専売公社の塩ににがりを加えて炊きなおしたものに過ぎず、公社塩の4倍の価格で販売しているのは不当だ」と発表し、新聞報道された。


 知念さんは憤慨し、「復帰前の塩田塩に近づけようとしていて、天日塩を取り寄せ、にがりを加え、鉄鍋に入れ、薪で煮詰める古式煎熬法で作ったもの。価格も県外企業と同程度だ」と反論。新聞で県と会社が意見を戦わせたので「シママース論争」と言われ、世間の関心事となった。


 後日、県は間違いを認め、文書で謝罪したが、取引先からは返品が相次いだ。そこで、当時の屋良朝苗知事を相手取って、100万円の慰謝料と新聞への謝罪広告を求める裁判を起こした。1年後に和解が成立し、県は謝罪広告を掲載したが、一度汚点を付けられると再起を図るのは大変だった。県内での販売は思うように伸びず、シママースの本土への販売に踏み切ることにした。

 

生活クラブとの出会い

 

 その頃、生活クラブ生協では組合員のなかから、国内で流通している自然塩を供給してほしいという希望が多く出されていた。1976年、消費委員会で専売公社の塩と自然塩について調査をはじめ、提携先を探し始めた。1977年、当時の生活クラブ生協・千葉の専務理事が、㈱青い海が取り組んでいる塩の運動を知り、知念さんに電話をかけたのが提携の始まりだ。それまで、製品の特長が理解してもらえず、流通業界から冷ややかな対応を受けていた知念さんは「生産者と消費者の顔の見える関係を大切にしたい」と話す生活クラブ生協の言葉に新鮮な驚きを感じた。一方、生活クラブ生協側も、知念さんの沖縄の海や塩に寄せる熱い思いに心動かされ、早速現地を訪ねることとなる。知念さんは生活クラブ生協の一行を相手に、塩が専売公社の政策のなかで変遷させられてきた経緯や、塩は生態系のバランスのなかで生み出されていることを、熱く語った。そして、生活クラブ生協と㈱青い海は、沖縄固有の産業を守り、塩の専売制のあり方を変えていく運動をしていくことで一致した。

(P.47-P.49 記事抜粋)

 

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