コラム②「南洋諸島」
沖縄の人びとの南洋体験から問う帝国日本
(同志社大学研究員 森 亜紀子)
この文章がみなさんの手元に届く頃、沖縄では世界各地に暮らす42万人もの県系人のなかから数千もの人びとが一斉に「里帰り」を果たす「世界のウチナーンチュ大会」(10月31日~11月3日)の準備が進められているだろう。1990年の第1回以来、回を追うごとに県内外から大きな関心を呼んできたこの大会は、前回には29カ国から7400人の県系人、県内からのべ47万人もの来場者を集める一大イベントに成長した(大会公式HP)。
海外での困難の多い生活に耐えながらも、故郷・沖縄が「ソテツ地獄」にあえいでいた時や、沖縄戦と米軍占領による生活の破壊に苦しんでいた時に救援物資や金銭を送ることで、文字通り「命綱」となってきた海外県系人。その存在に光を当てたこの大会は、「日米に虐げられるばかりだ」とネガティブに見られがちな沖縄近現代史を、「沖縄人同士の絆と愛郷心によってたくましく生き抜いてきた歩み」としてポジティブに捉え直す契機となっている。
しかし、この新たな歴史像からもこぼれ落ちてしまう人びとがいる。戦前に日本が植民地支配していた地域への移住者である。左の図をご覧いただきたい。戦前期に沖縄から最も多くの人が渡ったのは、ハワイやブラジル、ペルーなど「海外」ではなく、戦前に日本が植民地の一角として統治していた「南洋群島」(サイパン、テニアン、パラオ、マーシャル諸島などのミクロネシア)だったとわかる。当時、そこにはなんと5万人もの県系人が暮らしていた。けれど、南洋群島で沖縄の人びとがどんな暮らしをしていたかを知る人は少ない。そもそも、日本がミクロネシアを「南洋群島」と呼んで支配していた事実を知る人自体、ほとんどいないだろう。それはなぜなのだろうか。私は次の二つの理由があると思う。
一つは、戦後日本社会が、それ以前の近代化の過程で日本が次々と領土へ編入・占領した地域―アイヌモシリ(北海道・樺太・千島)、琉球列島、小笠原諸島、台湾、朝鮮、南洋群島、満洲、東南アジア?への「加害の体験」や「支配の歴史」にきちんと向き合ってこなかったことである。これは、東京大空襲や広島・長崎の被爆など、自国民がアジア太平洋戦争末期に米軍から受けた「戦争被害の体験」が繰り返し想起されるのとは対照的だ。「南洋群島」という場そのものが忘れられた結果、そこへ渡った移民の歩みも忘れ去られた。
二つ目の理由は、日本社会の多くの人にとってミクロネシアを含む太平洋の島々は、中国や韓国、台湾などの東アジアや東南アジアに比べてなじみが薄く、観光のために訪れるリゾート地以上の場所ではないことである。一口に「日本がかつて支配を及ぼした地域」と言っても、アジアに対する態度と、太平洋の島々に対するそれとは大きく異なっている。
(P.22-P.23 記事抜粋)