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④又吉元榮(㈱青い海代表取締役社長)個人史
「沖縄伝統の塩作りを引き継いで、想うこと」

【発売中】季刊『社会運動』2022年10月発行【448号】特集:青い海と沖縄 -未来を考える

 又吉元榮さんは1954年、沖縄県中頭郡美里村生まれ。美里村は琉球時代からの遺跡も多く残る、歴史を感じさせる集落だった。生家は当時の多くの家がそうだったように又吉家も茅葺きで、大家族で暮らしていた。1974年に美里村はコザ市と合併し、沖縄市となった。


 「物心ついた頃はインフラ整備もおぼつかない時代で、ようやく水道管が配管される工事現場の情景が思い出されます。流れている川も、コンクリートで護岸工事をしていない自然のままの川でしたね。その川の下流が泡瀬という塩田地帯。あの頃の泡瀬地域は賑やかなところで、映画館もありました」と又吉さんは当時の故郷を振り返る。


 ㈱青い海創業者の知念隆一さんと又吉さんは異父兄弟で、同じ美里村に住んでいた。一時は同居したこともある。海を見下ろす場所に知念さんの家があった。子どもの頃は又吉さんもその海へよく泳ぎに行ったと言う。潮が引くと姿をあらわすカニやナマコ、ウナギ、モズク……、美ら海の恵みは子どもたちの目を輝かせた。海への行き帰りには泡瀬の塩田のそばを通り、ときにはそのなかを駆け回った。後に自らも塩作りにかかわるが、又吉さんにとって塩田は見慣れた原風景だった。


 子どもの頃から見慣れたものといえば、米軍基地もそうだった。
 「私が生まれた時から米軍基地は当たり前のように存在していて、町へ行けばアメリカの軍人を大勢見かけましたし、家の近くの高台には、ずらりと米軍の施設や住宅が立ち並んでいました。そんなに抵抗はありませんでしたが、その周辺へ行くと、フェンスのない家の庭で番犬を放し飼いにしているので、何度も犬に追いかけられて怖い思いをしましたね。また、米軍の憲兵隊員も住宅地を巡回しており泥棒扱いされ逮捕された若者もいたと記憶しています」


 学校ではソ連や中国、北朝鮮などの「共産主義の脅威」を教えられたが、ふだん目にする米軍や基地問題については、先生たちも一切触れることがなかったという。


 「生徒たちの親が米軍施設に勤めていたり、軍関係の仕事に就いているケースが非常に多かった。米軍からそれなりの恩恵を受けていると感じて、先生方も言いづらい環境だったのでしょう」


 水道、道路工事など必要なインフラ整備はアメリカの会社が受注していて、工事を指揮監督しているのはアメリカ人の軍属だった。沖縄の事業者たちはその下請けをしていた。「アメリカにくっついていれば飯を食っていける」時代だった。とはいっても米軍とのかかわりで裕福になった家庭は1、2割で、ほとんどの人びとの生活は貧しかった。


 「テレビで見る本州の暮らしと私たちの暮らしは違っていました。道路は舗装されていなかったし、土のままの道に砕いた石灰岩を撒いただけでした。ほとんどの家の屋根はトタンか茅葺でした。貧乏生活ですが『ゆいまーる』(助け合い)精神ですかね、お互い食べ物を持ち寄ったり、お金の貸し借りもしていました。近所の雑貨店では後払いも頻繁に行われていました」


 米軍基地があるがゆえに、日常生活には危険も溢れていた。高校生だった又吉さんがよく覚えているのが、「毒ガス移送(71年)」だ。 大通りを平気で毒ガスが運ばれていった。前年には有名な「コザ騒動(70年)」もあった。


 「平和運動を懸命にしている人たちがいる事は知っていましたが、家族や親戚、近所の人が軍に雇用されているという環境ですから、 米軍機やヘリコプターが飛びまわってうるさいなと思っても、 声を大にして出て行けとは当時もいまも言えません。家族のなかでケンカになってしまう。そんなこともあって自分の意思を大々的に公言できなくなった。 私たちも大人の胸の内はなんとなく察していて、右へならえでも仕方ないなと。社会のことも自分からは考えようとしなかったですね」

(P.61-P.71 記事抜粋)

 

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