⑥辺野古と沖縄の自治(明星大学教授 熊本博之)
辺野古問題の経緯
─普天間基地の移設問題として始まったこの問題ですが、この間の推移についてまず概要を振り返っていただけますか。
発端は1995年の3名の米軍兵士による少女暴行事件です。それまで沖縄の基地問題についてはなんとなく落ち着いていた状況でしたが、あの時に沖縄の世論が沸騰しました。県民総決起大会には8万人以上が集まり、本土の私たちも、沖縄に集中する米軍基地を減らしていかなければならないことに気付かされました。当時の大田昌秀知事は、県民を守るために立ち上がり、政府と対立することも辞さない姿勢を示し、全国の世論も知事に好意的であったように思います。それを受けて、政府としてもこれは放置できないということで、1996年4月、日米間で普天間基地の返還合意に至りました。
しかし返還については、沖縄県内の代替施設の建設という条件がついていたわけで、それをどこに作るのかという話だけでなく、最初の時点から基地負担の軽減策ではなくなる可能性を秘めたものでした。負担軽減を実現するとすれば、宜野湾市のような人口が集中するところから、もっと人が少ないところへということになります。そこで沖縄県北部の名護市辺野古が候補地として浮上し、1996年12月に明記されたSACO(沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会)の最終報告において、辺野古崎の米軍基地キャンプ・シュワブ沖が事実上の建設予定地に決まりました。
辺野古はキャンプ・シュワブのある基地のまちであり、ベトナム戦争当時には歓楽街に繰り出した米兵たちから大きな利益を上げていました。しかし80年代以降は円高などもあって米兵は以前のようにはお金を落とさなくなり、かつてのような賑わいは失われました。そんななかで普天間基地の代替施設の話が持ち上がりました。これ以上の基地負担は認められないと反対する人たちから、しかたなく受け入れを容認する人、さらには千載一遇のチャンスと推進する人まで、地域のなかは割れていきました。
最初に出てきた具体的な案は、2002年7月の「沖合案」でした。滑走路の長さが2000メートルの基地をリーフの埋め立てによって建設するというもので、辺野古集落の住宅上を戦闘機などが飛ぶ可能性は高くないと判断し、これならばと受け入れを容認した人もいたと思います。
一方、建設に反対する人たちはこれを阻止すべく、カヌーや小型船を使って、那覇防衛施設局(現沖縄防衛局)による建設予定海域のボーリング調査に対する激しい阻止行動などを行って、調査を中止に追い込んで行きました。
(P.130-P.131 記事抜粋)